2017年9月23日 マタイ7:1-6「他を裁いてはいけない」

 

主の祈りのマタイの福音書612節「私達の負い目をお赦しください。私達も、私達に負い目のある人達を赦しました」皆さんで声を合わせて祈るというか、読むと、スラスラと言ってしまう箇所ですが、一人でじっくりと読み、祈るとき、ハッとさせられることがあると思いますが、いかがでしょうか?

ところで、今イスラエルは秋の例祭のシーズンで、ユダヤ歴新年「ロシュ・ハシャナ」をお祝いします。旧約聖書のレビ記23章には、「第7の月1日をあなたの安息の日とし、角笛を吹き鳴らして記念する聖なる集会の日としなさい」とあり聖書的にはラッパの祭りとされています。ラッパつまり角笛を吹くよう命じられているといいましたが、これは、「もうすぐ主が来られる。自分を振り返り、罪があれば今のうちに悔い改めよ」という呼びかけです。第7の月1日は、今年は920日から22日までとなっており、またレビ記23章には、「第7の月の10日は贖罪日である」とあるので、ロシュ・ハシャナから10日目つまり今年は930日に贖罪日(ヨム・キプール)が来ます。

もう一度、主なる神様に心を向けて、今日の聖書箇所から御言葉を読み、イエス様が私達にどのような心で主イエス様の御名によって集められたこの教会で、またおかれている家庭や地域でどのように神の愛を示すことができるのかを思い、礼拝できる恵みにあずかっていきたいと思います。

 

 12節をリビングバイブル訳でみると「人のあら探しをしてはいけません。自分もそうされないためです。なぜなら、あなたがたが接するのと同じ態度で、相手も接してくるからです」 となっています。「裁く」という言葉はギリシア語では、「クリノウ」という動詞で「分別する」「より分ける」「差別する」という意味があります。英語で批判する事を「critic」といいますが、イエス様が戒めたのは、習慣的なあら捜しや、不当な批判です。

 マタイの福音書5章から7章はイエス様がガリラヤ湖畔の西側にある小高い丘の上で大勢の人々に語られた教えで、パリサイ人たちは、モーセの律法の外側に多くの規則や伝統を作り上げた「ミシュナ」と呼ばれる決まり、律法に対して、イエス様は否定しています。12節の「さばくな・批判するな」という命令は、ミシュナに基づいて他の人を批判するな、とおっしゃったのです。

当時は、ミシュナにどれくらい従っているかで、その人の霊性が評価されたのですが、それは聖書から外れているのです。すべての裁き、批判は、聖書に基づいて行われるべきなのです。例えば、「安息日を守らなくてはならない」を現代にあてはめて、他の人を批判する人が実際にいます。

どのように批判するかというと、「安息日いわゆる教会の礼拝に来なかったら、その人は教会員ではない、クリスチャンとして罪を犯している」・・・どうですか?

確かに出エジプト記209節、10節には「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」と書いてありますが、聖書的には『安息日』は日曜日ではなく、『金曜日の日没〜土曜日の日没まで』ですから、日曜日の礼拝に来ないことを批判するのは矛盾していますし、また現代社会の中でウィークエンドや日曜日に働かなくてはいけない人もします。その安息日と呼ばれる日に病気になったらどうでしょうか?這ってでも礼拝に来ないとダメなのでしょうか? そんな事を神様は言っていないのです。

イエス様はヨハネの福音書832節「真理はあなたがたを自由にします」とイエス様を信じたユダヤ人達に言ったように、信じている私達は恵みによって救われ、律法の束縛から解放されて自由になったのです。ですから、もし教会の中で互いにダメ出しの裁き合いになったら何もない乾燥した砂漠のようになってしまいます。

主イエス様を頭とする教会は温かい潤いのある所でるべきです。もし教会が冷たい、愛がないと批判的な感情を持つ事があるのなら、その人こそ神様の愛の注ぎを更に求め、恵みの喜びを味わってください。教会だけではなく、社会においてもそうですが、おかれている所を批判する人は、どこ行っても決して満足する事なく批判的になり、自分では気が付かないけれど、周りから陰で批判されている事もあるかもしれません。だから「人のあら探しをしてはいけません。自分もそうされないためです。なぜなら、あなたがたが接するのと同じ態度で、相手も接してくるからです」とイエス様はおっしゃっているのです。

私達は自分自身に御言葉をあてはめて考える前に、他の人々に御言葉を当てはめて判断し、それをうっかり口にして、気づかない内に他の人を批判してしまいがちです。自分の罪の問題に目を向けないで人を裁くな、という事ですが、まず、その自分の問題を解決してから、自分の罪を解決できた時に、他の人の罪を正しく指摘することが出来、導くことが出来るのだと教えられます。

私たちが自分を度外視して他の人に当てはめていく時に、自分は神の役を演じていることになるのです。神と同じ位置に自分を置いているのです。裁くことができるのは神様だけです。パウロはローマ人への手紙21節でこう言っています。「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです」神ではないのに、神のように振舞ってしまう、自分が他人を裁いているその量りが、そのまま自分に当てはまるのだ、という事を気が付かないで他人を評価し批判する事をイエス様は警告しているのです。

それをもっとわかりやすいように、34節でユーモアを交えてイエス様は教えてくださっているのです。相手の目に「小さなちり、おがくず」がついているのは気が付くほどに他人の欠点には気が付くのに、自分の目に「大きな梁」がついているのは少しも気が付かないでいる。まず自分自身を初めに戒め、吟味し、自分自身が神の権威の中にへりくだること。そして、他者を戒めることは、自分自身を戒め、正していくことになるのです。ですから、教える、訓戒する、戒めるという働きはとても難しい事です。なぜなら、まず自分自身を変える、ということが要求されるからです。

親が子供を教えるだけではなく、いろいろな場面での教え育てる事、互いに仕え合う事は、自分自身が神の前に出て、自分自身が神からの取り扱いを受けて、その延長で教え、仕えていくという事になるのです。5節で「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」とイエス様が教えているように、まず自分自身が神様の前にどうであるのかを心開き、53節の「心の貧しい者は、幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」という御言葉に生きていく時に、神の愛を、救いを見出すことが出来るのです。

教会の中においては、いろいろな奉仕があります。互いに励まし、勧め合い、慰め合い、仕え合います。互いに忍耐して、へりくだり、御霊の一致を保つことを神様は私達に期待しておられるのです。

 

牧師としての経験もあり臨床心理学者である丸山真也先生がお書きになった本「健全な信仰とは何か」の中で「人間関係につまずき安い人の病理」についてこう書いておられます。

社会における人間関係に疲れて教会に救いを求めてきたのに、しばらくすると教会の中にも人間関係の問題があることがわかり、つまずいてしまう、もしくはつまずきの原因となってしまう場合があります。そうなり安いクリスチャンの心の深層には慢性的な「甘え」があります。「甘え」は「自立」とは対極的な状態にある事で、子供の頃に甘えたい欲求が十分に満たされていないと、大人になって慢性的な甘え、つまり相手次第になってしまう不安定な人間関係を生じる結果となるのです。そういう事から解放されるためには、境界線を確立し、自分自身を「神のかたち」に造ってくださった創造主なる神との関係の中で信仰を成長させ、霊的に成長する事です。

そうなりやすいタイプは大きく分けて3タイプあると、丸山先生は言っています。

第1のタイプ、教会の外の人間関係では自分を抑える事できるのですが、教会ではその反動で我慢しないで自分をストレートに出すタイプ。こういう人は自分に自信をもって積極的に奉仕をしますが、周りがその人に問題を感じていてもなかなかその人にむかって問題を指摘できない。誰かがその人に対して注意をしたり、反対意見を言うと「こんなに私は奉仕しているのに、そんなことを言われてしまった」と傷つきます。

第2のタイプ、教会での人間関係が受け身で、相手がどのように自分に接してくれるか非常に過敏なタイプ。周りと合わせるように絶えず努力します。このタイプのクリスチャンは、心理的な自立に問題があります。

第3のタイプは、先程の第2のタイプの適応型で、周りの人々の期待に応え、それが認められています。表面的には模範的なクリスチャンですが、内面的には無理をしているので、努力に努力を重ね、最後には燃え尽きて、鬱的になってしまうタイプ。

実際はもっと複雑ですが、共通している点は自立に問題があるという事です。成熟したクリスチャンとなるために、イエス様を頭とした教会、神の家族の中におかれている事、それぞれに違った働きがあり、それぞれに神に愛されているのだ、という恵みと真理の中の自由を味わってこそ、健全な信仰を育むことができるのです。

 

次に6節をご覧ください。ことわざで「豚に真珠」という言葉、値打ちがわからない者には、どんなに価値のあるものを与えても意味がなく、無駄であることのたとえですが、この聖書箇所から来ています。

「真珠」「聖なるもの」はイエス様の救いの福音です。犬や豚はユダヤ人によっては嫌われていた生き物ですから、この箇所では、自分は正しいと自負して、イエス様の教えを批判し受け入れないパリサイ派律法学者達をさしています。イエス様を批判し、その教えを踏みにじり、ついには十字架に付けてしまうような人達に、どんなに救いの知らせを告げても無益である、むしろどのように福音が伝わるのか知恵が必要であるので、それを求めなさいという意味です。

例えば自分はクリスチャンであるという自負から「神はあなたがたに悔い改めを命じておられます」と福音を語ったなら、「何様のつもりだ!」と怒りを買ってしまいます。人の罪を指摘するにも、福音を語るにもタイミングと相手の態度や状況を見極めて、福音を提供するのです。

 

今日の箇所からまず自分に適用し、 自分の欠点に目を閉ざしたままで、他の人に忠告を与えようとしていなかっただろうか?

教会の中で、神の基準よりも人間の基準を優先させていることはなかっただろうか?っただろうか。罪を犯している兄弟に対して聖書的に対処してきただろうか?

そのように神様に助けられて日々の歩みが出来る者でありたいと願います。なぜなら教会は主イエス様を頭とする癒しの共同体であって、問題が生じたらそれを相互理解し、聖霊様の助けを求めながら成長していくものだからです。

 

私達も個人的に、そして共同体として成長できるよう、願い求めていきましょう。