2016年7月23日 創世記28:10-22「神との出会い」

 

マルチン・ブーバーという哲学者は、「人生は出会いで決まる」と言いましたが、確かに私たちの人生はいくつもの出会いによって織り成されています。 振り返ってみると、オギャーと産声を上げた時の親との出会い、親類縁者と出会い、友達との出会い、恩師との出会い、ライバルとの出会い、 伴侶との出会いなど人との出会いのみならず、心に残る言葉や本との出会い、忘れられない風景や魂に響く音楽との出会いなどもあると思います。これらの出会いは、どれ一つとして無駄なものはないのです。

そして、「なくてはならないとても大切な出会い」というものがあるのではないでしょうか。そのような出会いこそ、 私たちの人生を決める出会いなのです。どんな出会いをしてきたのか、ちょっと考えてみましょう。

 

今日の聖書箇所からヤコブが神との出会い、そして神への応答という面からご一緒に学んでいき、礼拝を捧げて参りましょう!

 

ヤコブが両親の勧めもあり、兄エサウから逃れるために旅立ちました。

兄のエサウから長子の権利を奪い取ったにも関わらず、今まで持っていた物を全て置いて逃げなくてはならないに状況になり、両親の元を離れる経験。はじめての一人旅、はじめての孤独感を味わっていた事でしょう。同時に、本当の意味での自立に直面し、弱い自分を見つめ、神に助けを求めながらの旅立だったのだと思います。神に出会うためには、それぞれの孤独の経験があるかもしれません。ヤコブは日が沈み一夜を過ごすために、近くにあった石を枕にして横になると、不思議な体験をしました。夢の中で初めて主なる神の声を聞き、神のご臨在を体験したのです。12節から15節にどんな夢だったのかが書いてありますが、丁寧に見ていきましょう。12節を新共同訳の聖書でみると「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」となっています。階段の上には天の父なる神が、そして階段の下にはヤコブがいるわけです。

この階段が天の父なる神と地上にいるヤコブをつなぐように、イエス様の架かられた十字架は私達を天の父なる神につなぐという意味があるのです。イエス様ご自身がヨハネの福音書1章51節でその事について、こうおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使い達が人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」イエス様がバプテスマのヨハネによって洗礼を受け、その後ヨハネ、ペテロ、アンデレ、ピリポ、ナタナエルがイエス様に出会い、特にイエス様はナタナエルに向かって「この人こと生粋のイスラエル人です。正直でうそがありません」と声をかけると「どうして、おわかりなのですか?」とナタナエルは聞き返します。するとイエス様は「私はピリポがあなたに会う前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ましたよ」と言いました。それを聞いたナタナエルはイエス様が超自然的な力があり、なんでもわかっておられるお方なのだととても驚いて「先生、あなたは神の子、イスラエルの王です」とイエス様が神であると認めました。実はナタナエルはいちじくの木の下で、まさにこの創世記の箇所を読んでいたのです。それをイエス様はご存知でしたから、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」とご自身を明らかにしたのです。

ヤコブの見た夢に戻りますが、13節「主が彼のかたわらに立っておられた」とありますが、これは「主が階段の一番上に立っておられた」という訳の方が良いですが、ヤコブが見たものは栄光に輝く神であり、ヤコブは神のご臨在の中に置かれたのです。そして主なる神は「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である」と語られました。ヤコブは当然父イサク、祖父アブラハムの信じた神について、よく話しを聞かされていたでしょう。ヤコブが家族から離れ、故郷から離れて孤独になったときに、主なる神は現れて「ヤコブの神」となってくださったのです。そして主なる神はヤコブに約束をしてくださいました。13節から15節にある通りです。

①この地をあなたとあなたの子孫に与える

②あなたの子孫はちりのように多くなる

③地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される

④わたしはあなたと共にある

⑤あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう

⑥決してあなたを見捨てない

⑦わたしはあなたに約束したことを成し遂げる

ヤコブは後に神にイスラエルと命名されます。そのことは創世記32章24節から32節に書かれています。ですから、ヤコブに与えられた約束は現在のイスラエル民族にあてはまる約束でもあるのです。世界に散らばっているイスラエルの民を見捨てる事なく神の約束された地に連れ戻し、世界の祝福の基として下さるのです。その約束を必ず成し遂げると神様はおっしゃっているのです。

この不思議な夢を通じて神のご臨在を体験し目が覚めたヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と恐れおののき「ここは神の家であり天国への入り口なのだ!」とその場で礼拝し、記念として石を置き、ベテル「神の家」と呼びました。アブラハムが以前礼拝のために祭壇を築いたところでもあります。ヤコブは孤独の中で主に出会い、いつでも どこでも主が共におられるのだ、という事を体験したように、私達がイエス様に出会った時も多くの場合は人生の中の困難や孤独を感じる時ではないでしょうか?

20節から22節でヤコブは主なる神がどんなお方なのかを知り、全面的に主なる神に信頼していく歩みに変えられていくのだと宣言しています。主なる神との出会いを通じて、ヤコブ自身、信仰の歩みをスタートしました。私達も主なる神の導きを信じ、信仰の成長を願って日々歩みたいと思います。

 

最後にあるクリスチャンの方のお証しを、紹介します。このお証しはその方のお嬢さまの結婚式で紹介されました。

「私の娘は生まれた時に、いくつかの病気が見つかりました。4歳でアメリカに連れて来たのも、当時は医療が日本よりアメリカの方がはるかに進んでもっと前進的な治療があるかもしれない、という考えもあったからです。だから彼女が生まれたその瞬間から、どうぞこの子の歩む道に主がいつもともにいてくださり、どんな障害からも守り、この子の人生をあなたの祝福で満たして下さい、と祈り続けてきました。アメリカに来てから、英語での医療の説明や治療は不安だらけでしたが、ただ神様を信頼して進むだけでした。8歳頃から毎日自宅でする注射が始まり、旅行に行く時も常にアイスバックに注射の薬(液体)を入れて移動しなければなりませんでした。注射は順調に進んでいましたが、12歳の頃今度は体重が20パウンドも減ってしまい、また別の病気が発見され、2人で検査のために色々な病院を転々とし、なぜ、どうしていつもこの子だけが・・・と思う毎日でした。今まで丸々と太っていた子がベッドの上で紙切れのようになって寝ている体に手を置き祈り続けました。中学生になった娘の修学旅行、朝みんなが出発する時間に「頑張れば行けたかもしれないけど、もう間に合わない」と言って泣いている娘の横で、神様どうしてですか?あんなに祈ったのに・・・と私も一緒に泣きました。しかしそんな中でもがき苦しんでいましたが、良いドクターに出会うことが出来、道が開かれ大学進学への希望が与えられ、何かあったらすぐ対処できるようにと病院と自宅に近いマンハッタンにするように勧め祈りましたが、神様が用意されたのは、メサイアというペンシルバニアにあるクリスチャンの大学でした。「そんなに遠い所、誰も知っている人がいない所に送り出すなんてとんでもない、遠すぎる!」と思ったのですが、一度見学に行った時、学校長の「この大学に来たら、信仰は成長します」という言葉だけがものすごく印象に残り、その時から、なぜか「遠い」という気持ちがなくなり、「主がそこにおられるなら大丈夫」という気持ちになっていきました。 そして、驚くべき事に大学での4年間は完璧に健康は守られました。それは何事もなく過ぎた、というわけではなく、色々なびっくりするような危険な出来事やハプニングが沢山ありましたが、その度に、教会の皆さんがいつも自分のことのように一緒に祈ってくださいました。神様はずっと守っていてくださった、彼女だけでなく、彼女のそばで倒れそうな私のこともいつも支えてくれていた事を思わずにいられません。

あの子が生まれた時、先の見えない不安の闇の中にいたのに、神様が用意しておられた未来は、私の想像を遥かに越えたものだったのです。神様は祈ったその時に、すぐに何でも私の願い通り、思い通りにしてくれる魔法使いではなく、神様には神様の癒しの時があり、回復の時があり、信仰生活というのは、その主の御業が現れる時まで忍耐と信仰を持って待ち続けることだったのです。『あなたは主の栄光を見る、と言ったではないか』(ヨハネ11章40節)、『すべての事に時がある』(伝道の書3章1節)娘と一緒に祈り戦って来た苦しい日々が、本当にそれは主の栄光を見るための荒野の時であり、神様がこの地で私にしてくださった全てのこと、苦しいこと、悲しい事、辛い事も、それらすべては神様にもっと近づくためだった、神様がどういうお方であるかをその神様のご性質と真実さを身をもって思い知るためだったのです。振り返ると全てがあっという間の出来事のようです。結婚式が終わって娘と別れホテルに戻った時「ああ、23年間ってこんなに短かかったのか!」と思い、本当に子供は神様から、ひとときの間、預かったにすぎないものなのだ、としみじみ思いました。娘が大学に通い始めた時から新しい祈りをし始めたそうです。それは、彼女に将来、クリスチャンの伴侶を与えて下さい、という祈りでした。そしてその祈りの通り、主は彼女にクリスチャンの伴侶を与えて下さいました。しかしそれは考えていた予定より早すぎたので、「神様、祈りましたが、早すぎます!」と叫んだほどでした。でも、その後、家庭の事情や主人が日本に転勤そして香港へとなったため、私も日本に帰らなければならなくなったので、その事を主はすべて予めご存知でこのタイミングで結婚に導かれたのだと思います。

  一緒に祈り一緒に泣き一緒に笑った時間と、神様が子供たちを守り、ここまで導いてくださった事、そうやって過ごした宝石のような日々を思い起こすと感動で胸がいっぱいになり涙があふれてきます。主なる神は私達を決して見捨てることはないのです。」

こうお話しされました。

 

ダビデも孤独に打ちひしがれ、苦難にあった時でさえ、主をほめたたえました。

詩篇63篇1節から4節「神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる」

 

今日の聖書箇所でヤコブが主に出会い、主がいつも共におられる事を体験し、信仰の歩みをはじめた箇所から、私達も主のご臨在を求めて、祈り、賛美しつつ歩みたいと願います。