2017513「罪から救うために」マタイ1:12-17

 

もし、みなさんが「あなたは過去のある方ですか?」と質問されたら、なんと答えますか?この質問にドキ!としながら、「ええ、まぁ、人には言えない過去があります・・・」と答えるでしょうか? もしくは、「はい、ありますよ。さっきの事はもう過去の事ですよね」とさらっと答えるでしょうか? 誰でも生きていれば過去はありますよね~。その長さや中身はいろいろですが・・・。もし、ちょっとでも心に引っ掛かる過去があるとしたら、2つの原因があるかもしれません。ひとつは、自分のしたことに対する自責の念や後悔。もうひとつは、人からされた事から生じる恨みや恐れです。

たとえば「昨日、夫や妻に、親から、もしくは子供から、こんな事言われたから、このように言い返した」とか、「ささいな事を他の人にキツイ言葉で言ってしまったとか、逆に言われた」とか、あるいは「職場でひどい目にあわされた」とか、生い立ちの中でのいろいろな事があるかもしれません。しかし、私達にはその状況をどうとらえるのかの選択する責任があります。それによって過去に縛られて苦しく生きるのか、それとも過去を忘れて前に希望をもって進むのかです。私たちには、永遠をご支配している主なる神から、今という時をプレゼントされています。壮大な歴史の一コマの中のほんの一瞬の今に生きています。

 イザヤ書4318節・19節の言葉「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする」

 

 ずっとイエス様の系図を見てきましたが、今日は「罪から救うために、私達に新しい希望を与えるために来られたお方である、イエス様」を思い、恵みに与りたいと思います。

 前回はイスラエルの民が何度も神から「心が神からずれている、離れている」という警告を頂きながらも、ますます神から心が離れてしまい、イスラエルの国が分裂し、そしてバビロンに侵略されてしまった、という歴史を記録している系図から、それでも主は憐れみ深く、すべてを治めている王の王である事、だからこそ、赦しと和解をもたらす救い主、すべてを導く主であるイエス様が、この地上に来られる必要があるのだという事を見ました。

 今日の聖書箇所の系図は、バビロン捕囚後からキリストまでの600年の歴史であり、私達を罪から救うために来られたキリストなるイエス様までの救いを与える系図です。

 

 12節に出てくるエコイヤについては、前回、神の言葉を取り次ぐ預言者エレミヤがエレミヤ書2230節で「主のことばを聞け。主はこう仰せられる。「この人(エコニヤ)を『子を残さず、一生栄えない男。』と記録せよ。彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ」と告げたことを紹介しました。この言葉から、「ソロモンからエコヌヤを先祖に持つ者からはメシアは生まれない」という事になりますが、エレミヤ書2356節では、主なる神からの言葉には、その奇跡的な御業による救済計画があるという慰めに満ちた励ましの言葉だと紹介しました。エレミヤ2356節「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう」「若枝」 (「ツェマハ」צֶמַח)はメシアの象徴であり、イエス様のことです。イエス様の到来によって、ユダの国に本当の意味での公義と正義が行われると預言されているのです。その事は既に2000年前に成就したイエス様が地上に来られた事、そしてまた再びこの地上に来られてイエス様の治められることへの預言でもあるのです。

 

 さて、11節から15節に出て来るカタカナの人の名前は列王記、歴代誌、イザヤ書、エズラ記などに書かれていますから、本来ならこの系図に書かれていない人達もいたはずですが、マタイはある目的をもってこの系図に名前を載せて、17節「アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる」と目的をもって14代ずつ3つのグループに分けて記録しました。なぜ14代にしたのか14が7x2ですから、7は聖書で完全数で、それが2倍なので「全く完全であり、信じるに値します」という事を言いたかったのです。

系図を丁寧に見ていくと、気が付く箇所があると思います。16節「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた」とありますが、ルカの福音書323節で「このヨセフはヘリの子」と紹介されています。ヘリはヨセフの義理の父であり、実際にはマリヤの父であるのです。マタイは系図がユダヤ的な男性的家系図を強調しつつ、その中に女性を組み込んできました。ですからヨセフの父親は、マタンの息子であるヤコブは正真正銘のダビデの子孫であるけど、罪のある家系でもあり、だから「マリヤの夫であるヨセフが生まれた」とわざわざ書く事で、神の救いの計画は、このようであるとしたかった。なぜなら、冒頭でもお話ししたように、ダビデからソロモン、それ以降の子孫は神から外れてしまって「彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ」と主なる神が告げた事を、この箇所を読むユダヤ人は知っていたからです。同時にルカの福音書3章の後半に出て来る系図と比較すると、確かに救い主はダビデの子孫から出て来るが、息子ソロモンからではなく、息子のナタンの子孫から与えられる事が分かります。系図を読みながら、謎解きをしている気分になってきましたが、神様のご計画は実に面白いですね。イエス・キリストにつながるのは、確かにダビデの子孫であるヨセフではなく、母マリヤの系列ということになります。母マリヤの系図を遡って行くと、ダビデに行く着く前に、ナタンの名前が書かれています。マタイの福音書の系図はユダヤ人が読んでわかるように書かれていますから父方の系図が重要視されますが、ルカの福音書を書いたギリシャ人であるルカは、母方マリヤの系図のルーツにダビデを見出しています。

もうひとつ気が付く点は、「だれだれは・・・から生まれた」とずっと書いてきているのに16節の後半「キリストを呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」としています。系図では「生まれた」という言葉が40回出て来ますが原語の適切な訳は「生んだ」「もうけた」で、能動態で書かれています。しかしこの16節は受動態で書かれていているのです。それは神によって生まれた、神の力、主権によって行われる奇跡の出来事である、イエス様はヨセフによって生まれるのではなく、聖霊の力によって生まれたのだ、と伝えたかったのです。

 

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」を見てきましたが、

その系図は決して清く美しいものではなく、罪、穢れ、失敗、神に背いてきた背景がある中に、神様が送ってくださった救い主イエス様なのです。自分の生まれを恥ずかしいと思ったり、その血筋に劣等感を抱いたり、先天的、遺伝的に重荷を持っていたり、絶望的な中に置かれていたり、一度はイエスキリストを救い主と信じたのに、離れてしまったり、いろいろな重荷や複雑な状況にあっても大丈夫です。イエス様はすべてを担うために来られたお方なのです。

 

イエス様を信じ、人生が変えられた方を紹介します。淀橋教会の牧師である峯野 龍弘先生です。峯野先生は現在77歳、横浜生まれと、されています。「されています」というのは、実は いつどこで生まれたか、本当の親がだれなのか、わからないそうです。先生が50歳の時にお父様が亡くなりその葬儀の後で、お母様からこう秘密を打ち明けられたそうです。「お前は、私の本当の子ではない。あんたはお父さんの道楽の末に、妾に生ませた子で、出産後まもなくその人と折り合いが悪くなって、あんたはその人に捨てられて、困った父さんは、私になんとか育ててくれるように頭を下げてきた。子供には罪はないし、あんたが不憫だったから引き取ったんだよ。そうすれば父さんの道楽がやむと思ったから」

 そう言われて愕然としましたが、すでに信仰を持っていたので、それを聞かされて深い悲しみの中にいた数日の間に、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女達が忘れても、このわたしはあなたを忘れない」というイザヤ4915節に支えられ、慰められ、立ち上がれたそうです。

 峯野先生がどうしてイエス様に出会ったのか、そのような事情を知らなかった子供の頃、家庭で暴力をふるい、道楽をくりかえすご主人に耐えかねたお母さまは3回も自殺を図り、その都度、ご自身はお父様への憎しみと殺意を抱くようになっていったと同時に、幸せなよその家庭がうらやましくて、石を投げ込んだり、破壊的で陰険な性格になっていきました。そんな中、高校生になった時に聖書に興味をもって古本屋で購入し、数年の間、ひとりで聖書を読んでいたところ、大学生になった時、近くの教会へ行く機会が与えられ、初めて聞く賛美歌を聞いて心の闇が消えて明るい光が差し込んでくるのを感じたそうです。何回か通う教会での聖書の話、イエス様の十字架の愛が胸に迫ってくるのを感じた時に、「今、イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを赦してくださっています。それを信じるならあなたも、あなたの家族も救われます」という牧師を通じて語られる言葉を信じたいと決心し、「自分も家族も救われるなら信じます」と礼拝直後に牧師の前に進み出て言ったそうです。その瞬間以来、神様の奇跡と祝福の中を歩み、26歳の時に牧師となり、その後家族全員がクリスチャンとなり、現在に至っています。

 

  マタイの書き記した救い主なるイエス様系図は、私たちに「罪人の友なるイエス様」である事を教えてくださるのです。イエス様の愛と赦しを思い起こし、天の父なる神に感謝を捧げましょう。

 

「わたしは正しい人を招くためはなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来ました」