20161008創世記34:25-31「絶望の中での神の恵み」

 

 前回は池田真也先生から、34章の全体から「神の民の歩み方」と題して、「この世と調子を合わせてはいけない」「怒りを制する」という二つのポイントから学びました。この一週間、日々の歩みはどうでしたでしょうか?

 

さて、最近、ブームになっている1つとして四国のお遍路さん。なんでも「うるう年」は、いつにもましてご利益のある年で、逆打ちという逆回りをすると、いつも以上にご利益があるという事で今年はだいブームになっている反面、お賽銭泥棒が頻発し、困っているとの事でした。コメンテーターやお寺のお坊さんが言っていたのは、日本は基本的に「人間は本来は良き心をもってる」という性善説だから、まさかお賽銭が盗まれるとは思ってもみなかったのでしょうし、監視カメラをつけるくらいなら、「それは悪い事だと気が付いて欲しい」と願っています。という事でした。

これについて、皆さんはどう思いますか・・・? 性善説派ですか?それとも人間には悪の部分があるのだという性悪説派ですか? 

 聖書に登場する人物を見ると「正しい人はひとりもいない」と書かれています。

パウロは詩篇14編1節から3節を引用してローマ人への手紙3章10節から12節でこう言いました。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」

だからこそ、神の助けが必要だと認め、求めなさい、イエス様を救い主と信じなさい、そうすれば神の恵みによって義とされますと言いました。

 

先週から登場しているヤコブと娘ディナ、その息子達シメオンとレビも、問題だらけですが、今日の聖書箇所から、「絶望の中での神の恵み」というタイトルで御言葉に心を向けていきたいと思います

 

割礼を受けてから傷の痛みで苦しんでいるところに仇討ちするディナの兄たちシメオンとレビはその町を襲撃し、町の男子を皆殺しの上に女性子供、家のすべてにあるものを捕虜にしていきました。なんとも残虐な行為です。

そして父親であるヤコブは更に頭を抱え、息子たちに言いました。「ああ、なんてことしてくれたんだ!あなたがたはわたしをこの地の住民、カナン人とペリジ人に忌み嫌わせ、わたしに迷惑をかけた。わたしは、人数が少ないから、彼らが集まってわたしを攻め撃つならば、わたしも家族も滅ぼされるであろう」とこの息子達のした事のためにヤコブ一家が殺されるのではないかと不安と恐怖にさいなまれる事になったのです。にもかかわらず、息子達は「私達の妹を遊女のように扱ってもよいのですか!?」と父親に反抗していますが、確かに花嫁料をもらってディナを嫁に出す事は遊女と見なされる習慣だったのです。それにしても残虐極まりない事をしたシメオンとレビは、後でどうなっていくのか・・・ヤコブの臨終のときにシメオンとレビに向かって言われた遺言を紹介します。創世記49章5節から7節「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう」・・・この遺言は呪いの言葉です。  シメオンとレビはその残虐な行為への罰として、散らされてしまう、という事でした。実際、イスラエルの歴史を見ていきますと、二人の子孫であるレビ族とシメオン族は、他の部族のようにまとまって住むことが出来ずに、あちこちに分散して生活するようになってしまいます。詳しいことはまた後にお話ししますが、罪の故に祝福から漏れてしまった、という事なのでしょうか?    そうではありません!確かに彼らは罪のために、行った悪のゆえに罰を受けなければならない、それは義なる神様の下された審きでもあります。同時に神様は憐れみのゆえに、シメオンとレビの子孫を消滅させるのではなく、保持してくださいました。それは、新約聖書の時代に続く恵みです。

レビ族は、新約ではレビ人と呼ばれています。彼らは神殿において神様に仕える働きをする者となりました。シメオン族のほうはユダ族に吸収されて、部族としての独立性は無くなったと言われますが、それでも彼らの子孫はユダ族と共に生き延びたのです。

神様はヤコブ、すなわちイスラエルの子孫のために救いの計画を立てておられました。その救いの時が実現するまでは、人間から見たら長い長い時間がかかりました。私たち個人の場合でも、時間がかかることがあります。自分自身の救いもそうですが、他の方が救われてクリスチャンになれるようにと祈って、すぐに祈りが聞かれる場合もありますが、何年もかかることがあります。そこには忍耐が必要です。誰かのために救われるように祈る事は、神の御心にかなった事です。必ず聞かれます。神の憐れみと恵みを信じて祈り続けたいと思います。

 

また聖書には、私達は問題や苦しみが起きる時に、いっしょに乗り越えてくださる主が共にいてくださると書かれています。それによって神の恵みと奇跡を経験し、神を知るという経験です。

マタイの福音書28章20節「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」 「共にいてくださる神を知る」という事は、とても大きな事です。私達の理性でわかる神は、神ではありません。伝道者の書を書いたソロモン王はこう言いました。伝道者の書3章11節の後半から14節「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれる御業を、初めから終わりまで見きわめることができない。私は知った、人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中に幸せを見い出す事もまた神の賜物であることを。私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない」

ソロモン王の人生もいろいろありました。第1列王記を読むと分かりますが、ソロモンは王位に就き、神様から望むものを聞かれたとき、 神の民を治めるために「知恵」を求めました。神様はそのことを喜ばれ、 知恵とともに富と誉れをも約束してくださいました。ソロモンの治世は40年です。 4年目から20年を費やして神殿と王宮を建設しました。 その志が達成されると心に隙が生じたのでしょう。神様の祝福と恵みを忘れ、神様と共に生きることから遠ざかり、与えられた知恵と富とに生きるようになるのです。後の17年は王として内政、 外交に尽くし、表面的には繁栄を極めるのですが、 一方では信仰を捨てたがゆえの崩壊が始まっていました。ソロモン王の心に平安がない人生の後半にきて、やっと神様に心を向けて、すべては神様の御手にあるのだと

伝道者の書、箴言を記すに至りました。

 「あなたの宝のある所に、あなたの心もある」とイエス様はおっしゃいました。マタイの福音書6章21節です。19節から読みますと「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこ では虫とさびで、きず物になり、また、盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびも つかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです」私達の心はどこにあるでしょうか?  

地上のことに心を奪われてしまって、永遠の世界に対する視点を失うことはとても残念な事です。地上のことは全て有限であり、いつか終わりが来るからです。しかし、永遠に続くものが確かにあります。永遠に対する視点を持って歩むことは力になります。

 ヤコブが神様の声より自分の声に従ってシェケムに土地を購入した所から事件が起こり、頭を抱える問題に巻き込まれても、主の憐れみは尽きず、私達に多くの事を教えて下さいます。人間の悪を知って、神の聖さを、愛を知る事が出来るのです。神がイエス様を送ってくださり、十字架についてくださった。憐れみ深い神様が私達ひとりひとりを知ってくださっているという事は、どれほど大きな慰めと平安が与えられるでしょうか!?ヨハネの福音書3章16節「神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる人が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」この聖書の言葉だけでもしっかり心に刻む事で、希望が持てます。主の約束は変わる事がありません。ですから、どんな時にも感謝の賛美をもって歩む事が出来るのです。

 

皆さんもよくご存知の映画俳優で、キリストの受難と復活を描いた映画「パッション・キリストの受難」の制作監督のメル・ギブソンさんの証しを、紹介します。「人生は大変です。みんな傷ついています。私は自分の傷を癒してもらうために、キリストの傷に近づいたのです。そして聖書を読み、黙想し、祈った時、初めてキリストがどんな方かを知りました。それは『犠牲』です。イエス・キリストが自分自身のためではなく、私のためにどんなに苦しまれたかを知った時、この方の中に希望があると思ったのです。私の傷はイエスによっていやされました。そのイエスの傷を、人々に語りたかったのです」 

メル・ギブソンさんは自分の傷について具体的に語っています。「以前、私は酒と麻薬に溺れていました。映画を製作する12年前、うつ病に悩んだ末、ついに精神のバランスを崩し、自殺まで考えました。その中でかつて父親が信じていた信仰を思い出し、救いを求めました。その結果「私の傷はイエスによって癒されました」という告白に至ったのです。イエスの傷には人の傷を癒す力があると信じています。これを多くの方に分かち合いたいと思い、「パッション・キリストの受難」を製作しました」

 メル・ギブソンさんはその後、ユダヤ人への差別的な発言をし、しばらく映画の世界から姿を消していましたが、最近は実話で第二次世界大戦中、信仰のゆえに戦いの中で人を殺したくないと言った沖縄で任務についていた兵士についての映画を製作中です。

  

恵み豊かな神は、失敗をしてしまうような人間でさえも、救いの道を伝えるために用いるのです。パウロは第1テモテの手紙1章13節でこう告白しています。「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました」 神様の恵みの中を生きると、喜びが、力が与えられます。

もう一人の方を紹介します。今日賛美した「歌いつつ歩まん」の作詞をしたエリザ・ヒューイットさんです。1851年アメリカのフィラデルフィア出身。18歳の時に学校の先生となりました。冬のある日、事故に遭い、脊髄を損傷してしまい、そのために身動きが全く出来ず、横になっていなければなりませんでした。エリザはその後、ベッドに伏し、苦しみの中で毎日つぶやき、信仰も失いかけていました。しかし、そんなエリザが信仰を回復したのは、病室に毎日掃除をしに来るおばさんの姿を通してでした。彼女は掃除しながらも、いつも感謝に溢れて、賛美し、笑顔を絶やすことがありませんでした。エリザはそのおばさんを見て感動したのです。「彼女も私も同じように命を与えられている!私はこうしてつぶやいてばかりなのに、彼女はあのように感謝して賛美している・・・!」エリザの身体はベッドに伏し、身動きが出来ない状態でした。身体の痛みの中心も失望、落胆に捉われていました。しかし、彼女はお掃除のおばさんの姿を通して、心を一新したのです。どんな時も主を見上げ、主にすがる決心をしたのです!エリザは彼女の姿を通して感動したのです。そして、エリザが書いた詩が『歌いつつ歩まん』

心の中に入り込んでいた失望、落胆を追い出し、心を守るようにしたのです。その結果、多くの人々が愛唱する賛美『歌いつつ歩まん』の詩が、彼女の心から溢れ流ました。

その後、祈りがきかれ奇跡的に脊髄損傷から回復し歩けるようになり、日曜学校の先生をしながら、いくつかの美しい賛美歌の歌詞を書き残し、1920年68歳で天に召されました。エリザさんはお掃除のおばさんを通じて、神様への信仰を回復したのです。

美しい賛美歌の背景に、様々な人生と神様の愛を感じます。

 

詩篇51篇1節2節「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください」

 

このように神に信頼し、心開いて、神の恵みを受け取りたいと思います。そのためにイエス様の十字架と復活があるのです。