2016年6月4日創世記23章「アブラハムの歩み」(メッセージ:池田 真也先生)

 

最近「終活」という言葉を耳にしますが、私達は必ずしなくてはいけない活動です。私達の人生をどのように終わすのか、それを考える事ですし、この地上で生きている以上は、きちんと考える必要のある事でしょう。

 

皆さんは最近走りましたか?どのくらい?

或る今まであまり運動した事のない方が42.195KM走るフルマラソンに挑戦したいと思い、毎日少しずつ走って数年かけてやっと42.195KMを走れるようになりました。それで初めてフルマラソンにエントリーし走りましたが・・・残念ながら41KM地点で棄権することになってしまいました。でもその人はあきらめませんでした。もっと大きな目標に向かって次は100KMマラソンに挑戦したいと思ったのです。それで長い間トレーニングして100KMマラソンを走りました。そして気づいたら当初の目標だった42.195KMは易々と通過した事に気づいたのです。そして最後は歩きになってしまいましたが、100KMを完走出来たのです。目標設定はとても大切ですし、それは私達の人生設計にとても大切な事です。特に私達の人生のゴール最期の「死」をどう受け取るのか・・・。「死」を迎える事を不安に思うか、それとも希望を持つのか・・・。「死」は必ず来るものでが、「死」の向こう側になにがあるのか多くの人は知りません。しかし私達イエス様を信じる者は「天国」への希望を持っています。ですから、とてもワクワクしますね。救い主イエス様を信じる者は「死」は通過点にすぎません。聖書の約束通りに痛みや苦しみもない朽ちない体に変えられて、神との麗しい関係の中で平安に、永遠に、賛美を捧げながら生きるという希望があります。

 

今日の聖書箇所から、アブラハムと共に歩んだサラの埋葬から学びます。

サラは127年の人生をこの地上で過ごしました。聖書の中で女性の年齢が書かれているのはとても稀な事ですから、サラの年齢が書かれているのは、彼女の存在がどれほど大きな事だったのかという事がわかります。アブラハムが愛する妻サラが亡くなり、彼女を埋葬するというところです。当時亡くなった人を埋葬するのは残された家族の役目でした。現在のように葬儀屋さんはありませんからね。また死人を敬うという習慣はとても重大な事でした。

だからこそ、家族は敬意を表しながら埋葬しました。特にイスラエル地方は暑く、早く埋葬しないと遺体が早く痛んでしまうので、アブラハムは愛するサラの亡骸を埋葬する場所を探しましたが、当時彼らが住んでいたヘブロンは彼らの土地ではなかったのです。ヘテ人が住んでいました。ヘテ人はイスラエルの北側トルコに近い所に住んでいた民族でしたが、当時はこの辺りにも住んでいましたので、アブラハムはヘテ人にお願いしました。4節「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです」

そのようにお願いすると、ヘテ人はアブラハムに「あなたは神のつかさです。だからサラを最上の墓地に葬ってください」と言うのです。6節「ご主人。私たちの言うことを聞き入れてください。あなたは私たちの間にあって、神のつかさです。私たちの最上の墓地に、なくなられた方を葬ってください。私たちの中で、だれひとり、なくなられた方を葬る墓地を拒む者はおりません」つまり、墓地は差し上げますと言うわけです。アブラハムは地域の人々に尊敬されていた事がわかります。当時、土地を得るためには方法は2つでした。土地を買い取るか、もしくは戦って勝ち取るか・・・。だからこそ、アブラハムはそこを譲って欲しいとお願いしたのです。「神のつかさ」とは新共同訳聖書では「神に選ばれたお方」と書かれています。「神のようなお方」「神に等しいお方」と現しています。いずれにしてもヘテ人がアブラハムに対して尊敬を表現しています。アブラハム達は遊牧民でしたし、家族だけではなく多くの僕達や家畜も一緒でしたから、大勢で移動していました。住むためにはその地域のリーダーを話をする必要がありましたから、アブラハムと話をした人はきっとアブラハムに対して「なんて素晴らしい人なのでしょう!」「あのソドムとゴモラを破壊した神がいつも共におられるスゴイ方」と思っていたに違いありません。なによりもアブラハムを通じて、神の栄光が現れ、アブラハムも神を証しした人生だったのです。ですから「神のつかさ」と言われたのです。

ところで、皆さんは造られた理由、目的をご存知でしょうか? 私達の共通の理由があります。イザヤ書43章7節「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」とあります。私達の目的は、私達の作者であるお方、神様を紹介するために造られたのです。だからこそ、私達ひとりひとりは

それぞれに神様から賜物(ギフト)が与えられているのです。マタイの福音書5章14節から15節でイエス様はこうおっしゃいました。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。この光、私達は光っている、神様の光を放っているという事なのです。ここにいらっしゃる皆様がそれぞれ光っているのです。どのように光っているのでしょうか?それは与えられている賜物(ギフト)を用いる事によって輝いているのです。

輝かせる理由はマタイの福音書5章16節「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」とあるように、神を証しするためです。たとえば太陽と月の関係のようです。

月は自ら光っているのではなく、太陽の光を反射しています。私達も同様に、神の栄光を輝かせる事が出来るのです。

 

最近、日本人のサッカー選手もゴールを決めると天を指す選手がいますが、その発想はクリスチャンの選手が栄光を天に帰す事から始まりました。代表的なのがネイマールJr.選手です。幼いころ自動車事故に会った時、彼は奇跡的に助かり、イエス様が守ってくださったのだと信じています。それ以来、命はイエス様の物であると信じて、いつでもイエス様を証ししているのです。ある試合で勝利を収めた瞬間、彼はシャツを脱ぎ、頭に巻きました。そこには「100%Jesus(100%イエス様)」と書かれていたのです。いつでもどこでも主イエス様を信じている事を証ししているのです。彼の行動は布教活動になるのではと非難されましたが、FIFAの規定で試合内でイエス・キリストについて語ることは禁止ですが、試合外では大丈夫なのでその機会にネイマールは臆することなく、「このゴールは神によるものです」と言っています。

同様に、私達ひとりひとりも輝いているのです。それぞれ役割が違うのですから、比べる必要はありません。神から与えられている使命は何でしょうか?

 

さて、6節でヘテ人がアブラハムに「埋葬する土地をあげますよ」と言いましたが、アブラハムは丁寧にお辞儀をし、「譲ってください」とお願いしますが、それでもヘテ人は「差し上げます」と言いました。更にアブラハムは13節「もしあなたが許してくださるなら、私の言うことを聞き入れてください。私は畑地の代価をお払いします。どうか私から受け取ってください。そうすれば、死んだ者をそこに葬ることができます」と言って、400シェケル(約1200万円)を支払いました。ヘテ人が「差し上げます」と言ったのにも関わらず、アブラハムが支払うと言った理由は、なんでしょうか?

10節「エフロンはヘテ人たちの間にすわっていた。ヘテ人のエフロンは、その町の門にはいって来たヘテ人たちみなが聞いているところで、アブラハムに答えて言った」というのは、エフロンは公の問題を取り扱う役割があり、そこでアブラハムは「きちんとこの地を相続したい」としっかりと契約を結びたかったのです。どうしてそこまでしたかったのか・・・。

神との契約があったからです。創世記15章13節-16節「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである」という約束があったので、四代目が戻って来るために所有していたかったのです。

アブラハムはこの時はカナンの地にいたのにも関わらず、自分の所有地がありませんでした。

したがって、サラの埋葬のためだけでなく、やがてアブラハム自身、息子イサク、イサクの妻リベカ、イサクとリベカの息子ヤコブ、ヤコブの息子ヨセフが葬られる事になるのです。

ヨセフはエジプトで亡くなりますが、イスラエルのこの地に葬られたのです。

アブラハムは神の言葉を信頼して、未だ見ぬものへの信仰があったからこその行動でした。

アブラハムの信仰の歩みは、神の言葉を聞き、それを信頼して歩むものでした。

 

皆さんはどんな聖書の言葉で励まされているでしょうか? 

例えば、ヨシュア記1章9節「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」どんな時でも全能の神が共にいてくださる事を思ったら、勇気が出ますね。

エレミヤ書29章11節「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」なんでこんな事が起きるのだろうという中にあっても、希望が与えられますね。

 

最後にクリスチャンの方を紹介します。岩淵まことさんと奥様の由美子さんです。

God bless you」「父の涙」など素敵なメロディーを作曲されています。

「父の涙」という賛美の曲がありますが、その背景は二人のお子様が8歳の時に脳腫瘍が見つかり、看病で悩み疲れ果てていた由美子夫人はすがるように聖書を開き、そして慰められた言葉はイザヤ49章15節「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」でした。由美子夫人は看病で疲れ果て、もう無理だ、限界だと思った時に、人間の自分には限界があるけれど、主なる神は憐れんでくださるのだ、我が子を、そして我が子同様に自分も顧みてくださる神がいてくださると慰められ、平安を得たそうです。

 

聖書の言葉はいつも私達に約束の確信と励ましを与えてくれます。今日はどんな励ましの言葉を与えられたでしょうか?

 

神の言葉は変わることがありません!