2016年9月24日創世記33章「神の恵んでくださったので」

 

前回は、神との格闘の中で「私を祝福してください、祝福してくださらないならこの手を放しません!」と求め、神によって砕かれて新しくされたヤコブの姿から学びました。

ちょうど明日は相撲の9月場所千秋楽ですが、このヤコブと神との格闘は、相撲の起源と言われています。後に散らばされるイスラエルの部族がシルクロードを通じて日本に渡ってきて残してきた神聖な物なのです。

そして先週読みました32章28節では「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神を戦い、人と戦って、勝ったからだ」とヤコブは「イスラエル」という名前、これは民族としての名前となっていきます。

 

今日は新しくされたヤコブが兄エサウとの再会の場面からご一緒に見ていきたいと思います。

 

「恐れることはない」と神から力を受けたヤコブ。故郷を目指し進んでいくと、兄エサウが400人を連れてやってくるのが見えたのです。それでも(ひる)まずに、ヤコブは家族の先頭に立ち、エサウに近づくまで7回も地にひれ伏してお辞儀をしている姿に、ヤコブが変えられた事が見られます。エサウはそんなヤコブを迎えに走り寄って、抱きしめて、口づけをして 再会を泣いて喜びました。  エサウの心から、もはや怒りや復讐心は取り除かれていたのです。5節「エサウは目を上げ、女たちや子供たちを見て、『この人たちは、あなたの何なのか』と尋ねました。ヤコブは自分をあなたのしもべと呼びながら「神があなたのしもべに恵んでくださった子供たちです」と家族を紹介しまし互いに挨拶を交わしました。挨拶が終わるとエサウはここへ来る途中、次々と出会った家畜の群れと、ヤコブのしもべ達の言葉について質問します。32章の前半で恐れと不安でいっぱいだったヤコブが、エサウのご機嫌を取るために贈り物として家畜の群れを先に行かせて、「これはヤコブ様より贈り物です。お受け取り下さい」としもべに言わせていたのです。ですからエサウがここへ来る途中に出会った一団はいったいどういうものなのか」と尋ねると、ヤコブは「あなたのご好意を得るためです」と答えました。するとエサウは「そんな気を遣うことはない。自分は十分持っているから、お前の物はお前の物にしておきなさい、これからも必要が出てくるだろうから」と自分は十分だから、ヤコブの申し出を断りますが、ヤコブが9節から11節でしきりに勧めました「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブは、始めはご機嫌とりだったのかもしれませんが、神の力によって仲たがいしていた兄弟の関係が修復されて、今は神の大きな恵みと祝福を与えてくださったので、それを分かち合いたいから受け取って欲しいと勧めたのです。それでエサウは「そうか、そうか」と受け取りました。

エサウは兄ですから、兄として「さあ、旅を続けて行こう。私はあなたのすぐ前に立って行こう」一緒に行こう、先導するからと提案しますが、ヤコブは妻や子供達、それに家畜を連れていし、ペースも異なるので先に行ってくださいと断ると、エサウはヤコブの助けになるだろうと、エサウの連れている幾人かの強い者を使うようにと提案しますが、ヤコブはそれも断りました。神によって和解した双子の兄弟エサウとヤコブ、二人の進む道は違っていたのです。エサウも多くのものを得ていました。しかし、それは自分で獲得したと自負していたでしょう。一方でヤコブは「これは神が恵んでくださったもの」と主に栄光を返すことを忘れませんでした。

 

私達が礼拝の度ごとに祈っている「主の祈り」

イエス様が弟子たちに教え、私達にもこう祈りなさいとお手本として教えてくださった「主の祈り」にある「御名をあがめさせたまえ」シリーズでお話ししていますが、実はこの部分、本来、人間にとって最も難しい祈りの言葉かもしれません。なぜなら、私たち人間は自分に対する人からの称賛を求め、自分に栄光を帰そうとする傾向の強い、自己中心的な存在だからです。神は聖なるお方、神に栄光あれという「御名をあがめさせたまえ」です。詩篇29篇1節2節「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力とを主に帰せよ。 御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ」にあるように、全ては主なる神が与えてくださっているのだから主に感謝と賛美を捧げ、日々を丁寧に生きる必要があるのです。

 

エサウはセイルに帰っていき、ヤコブはスコテへ移動しました。ヤコブの行くべき目的地は神との約束の地ベテルでしたが、途中で家を建て、家畜のために小屋を作りしばらくの間そこにとどまりました。一時的に滞在したその場所は「スコテ」仮の場所、小屋という意味です。言い伝えによればヤコブはスコテに約1年半滞在し、その後カナンの地にあるシェケムの町の手前の場所で宿営をはり、100ケシタ銀貨100枚もしくは羊100頭に相当する額を支払ってハモルの息子達から土地を買い取りました。ヤコブは遊牧の民でしたから市民権がないのでシェケムの町の手前に滞在し代価を支払って、土地を購入したのですが、このヤコブの行動に、ちょっと考えてみましょう。

 

神はヤコブにどこに行きなさいと命令されたのでしょうか?創世記31章13節「わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい」   

そうです、神が示した目的地はヤコブの生まれた所です。しかしヤコブはシェケムに留まりました。ヤコブの父イサクも祖父のアブラハムも遊牧の民でしたが、ヤコブはもう一日歩けば目的地だったのに、そこに留まろうとしたのです。シェケムの方が便利で住みやすいと考えて定住を好んだのかもしれません。ヤコブは神が共におかれる、神が共にいてくれなければやっていけないという思いはありましたので、礼拝のための祭壇を築き、それを「エル・エロヘ・イスラエル」「神、イスラエルの神」と名前を付けたのです。シェケムについてはきっと父イサクから「おまえのおじいさんアブラハムは、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来て、その当時、そこにはカナン人がいたのだが、主が現れて、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられたのだよ。それでおじいさんは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いたのだ」という話を聞かされていたのかもしれませんが、それをどう受け止めていたのでしょうか・・・。「エル・エロへ・イスラエル」の「イスラエル」は、創世記32章28節でペヌエルで神様がヤコブに与えた新しい名です。ですから、祭壇は神を礼拝するというよりむしろ自分のための祭壇を築いた、つまり、ここで「イスラエルの神である神」は、ヤコブのための神であり、築かれた祭壇は「神と戦い、人と戦って、勝った・神と顔を合わせて見た」ヤコブ自身を記念する祭壇です。ヤコブはペヌエルの真の勝利者は神である事や、腿のつがい・股関節を折られた理由をすっかり忘れてしまったのです。野心と妥協が大きな悲劇を生みました。主を礼拝する事が大切な事はわかっていたヤコブなのにも関わらず、気の緩みがあったのでしょう・・・神に従ってベテルに行き、故郷を目指す事よりも安定を求めた自分の気持ちを優先し、このシェケムで愛する娘に悲しい事件が起きるのです。

 ここで私達が考えさせられる事は、礼拝をどう取り扱っていくのかという事です。

聖書は礼拝についてこう教えています。ヨハネの福音書4章23節から24節でイエス様がこうおっしゃいました。「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」

これはヤコブの泉と呼ばれる井戸に人目を忍んで水を汲みに来ていた5回離婚し、いま6人目の男性と同棲中のサマリヤ人女性との会話の中で、イエス様がおっしゃった言葉です。実はこのサマリヤの女性が水を汲みに来ていた泉「ヤコブの泉」とはまさにヤコブがこの時に掘った井戸なのです。

この女性はいつか自分をこの状況から救ってくださるメシアが来て下さる事を願っていたのかもしれません。

イエス様と会話をしているうちに「この方がもしかしたらメシア?」と思えるようになって女性は「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は(サマリヤ人は)、この山で礼拝しましたが、あなたがたは(ユダヤ人は)、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」を言いだしました。するとイエス様は「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」とおっしゃったのです。「いつか来ると、いつか救ってくださる方が来るとあなたが思っているキリスト、救いの福音をもたらすキリストは、私だ。私が、あなたの罪を贖い、愛に渇いているあなたに尽きることのない命の水を与える。あなたが信じるならば、あなたは今日、私の父を『お父さん』と呼んで礼拝することが出来る。あなたは父の尽きることのない愛と赦しの中で霊に満たされるだろう。」イエス様は、このサマリヤ人女性に語ったように、今ここにいる私たちに語ってくださっているのです。

 天の父なる神の尽きる事のない愛と赦し、恵みの中で私達の霊は満たされているでしょうか?

 私達も霊的な緩みに気をつけなさいと聖書は教えています。第1ペテロの手紙5章8節9節「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです」

「身を慎み」は「落ち着いていなさい」という意味です。しっかりと主なるイエス様につながって信仰に堅く立ちなさいと励ましています。このペテロの手紙は当時のクリスチャン達が苦しい迫害の中にあったのでそれを励ますために書かれたのですが、私達は迫害に合う事はなくても、目には見えない敵によって信仰が揺らいだり、イエス様とのつながりがだんだん薄れてくるなどの危険があります。イエス様とのつながりが薄れる要因として、特に変化のない日々を送る、もしくは自分の用事を一日に詰め込んで忙しくして、感謝する事さえ忘れ、主を思う祈りの時間がなくなっていく事が悪魔の策略なのです。

以前にも紹介した事があると思いますが、今から10年くらい前に「祈れないほど忙しい?」という本が出版されました。著者は米国イリノイ州、シカゴ郊外にあるウィロークリーク・コミュニティー教会の牧師であるビル・ハイベルズ師です。その本の中でこうお話しされています。

キリストに従う者として成長していないとしたら、自分の生活を評価する習慣が身付いてないからだと気付かされました。いつも動き回り、自分の内面をじっくり見つめる事がなく、成長に結びつくような反省を全くしてこなかったのです。そこで毎日、内面を見つめ、感じた事を書き出すようにしました。初めは自分の悪い面を発見し書き出す事は恥ずかしい事でした。「神様、今の私の生活に少し不満があります。なかなか解消しそうにないので、考えた方が良いのですが」とか「私には人間関係で問題があります。どうしてもうまくいきません。改善する方法を示してください」「今日一日、神様が注いでくださった祝福があります。感謝します」と1、2行書いては思い返して、その中でどれほど神様が私を愛してくださっているのかが分かるようになりました。そして月の終わりに読み返して、神様がどれほど奇跡をしてくださったのか、祈りに答えてくださったのかを感謝します。信仰が弱くなったと感じる時に、読み返して力を得ます。何よりも祈る事です。祈りの訓練です。それが習慣になるまで祈るのです。

そして祈りはまず第1に、主への礼拝・賛美から始めます。第1ヨハネの手紙3章1節「いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう」というみ言葉に立って「天の父なる神様、あなたは全能のお方。できない事のないお方です。それゆえあなたを礼拝します」と口にした瞬間、今抱えている問題がどんなに大きくても、「大丈夫」「いつも共にいてくださる力強い神が私を助けてくださる」と思えてきます。

二番目、具体的に罪を告白します。たとえば「今日はこんな事で腹が立ってイライラしました。私は決して寛容になれません」のように神様に向かって正直に告白する事によって、それを神様が取り扱ってくださり、新しくしてくださるのです。第2コリント5章17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」

三番目「感謝」第1テサロニケ5章18節「すべての事について、感謝しなさい」とあるように、悪い事でも良い事でも感謝する、感謝できるように神が祝福し助けてくださいます。

 そして最後に願うのです。ピリピ人への手紙4章6節「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあります。その時に「神様、私はいまこのような気持ちで願いをしていますが、もしあなたの御心やご計画と違うものでしたら、それに従います。神様の最善を求めます」と明け渡して祈る、そして常に栄光を主イエス様にお返しする事がポイントです。

  ヤコブのとった判断、もう一歩のところでとどまるという自分の思いを優先した姿から、私達に教えられている事、主がいつもひとりひとりを恵もうとしてくださっている事、祈る事によって魂が守られる事を忘れないように、と願います。

 

箴言4章20~23節「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ。

それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」