2017年6月3日 マタイ2:13-23「神のご計画の成就」

 前回は、詩音先生より「東方の博士たちがずっと求めていたもの」ということで、キリストに出会い、共に歩むためにはどうしたら良いのかとお話を頂きました。

 

今日お読みいただいている箇所は、イエス様を訪問した博士たち一行が帰った後の出来事です。ヨセフは神から2回目の導きを得ました。最初の夢はマリヤが聖霊によって身ごもりその子はメシアだという事でした。今回は父としてどのようにその幼子を守ったら良いのかを示すものであり、ヨセフはそれに従う心がありました。どんな導きだったのか・・・ヘロデ王の手によって幼子イエス様を守るためにエジプトに逃げるように命じます。それに従ってすぐに立ち上がって幼子イエス様とマリヤを連れてヘロデ王が死ぬまでエジプトにいました。この事についてマタイは15節で旧約聖書のホセア書111節「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した」という預言の言葉が成就したのだ、と言っています。つまり、どんな事でも、全ての事が神のご計画の中にあるのだ、という事です。

エジプトでの暮らしをしのぐために、どのように経済的にまかなえたのかというと、東方の博士たちからの贈り物が役に立ったのです。神はヨセフ達の必要を予めご存知で、必要な物を用意してくださるのです。ヨセフ達を導き、守ってくださる神は、同じように私達を守ってくださっています。ですから、どのような状況にあっても神の言葉に信頼して歩む事によって、必ず道が開かれるのです。そのために私達は神の言葉に従う心を持っている必要があるのです。

 

16節から18節はヨセフがエジプトにいる間になにか起きていたのかという内容が書かれています。

前回読みました78節「ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」にあるように、ヘロデは博士たちが報告してくるものだと思っていましたが、博士たちは12節にあるように、神から夢の中で示されたように、来た道とは違うルートを通って帰ったのです。そのことをヘロデは騙されたと思い、怒り狂って、博士たちの割出した時間から、町とその周辺に住む2歳以下の男の子をすべて殺せと命じました。 

ヘロデはとても猜疑(さいぎ)(しん)の強い人物で、少しでも疑い深い人がいたら、たとえ家族でも妻でも息子達でも殺すような人格でした。先ほども紹介した箇所8節で「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言ったのは大きなウソです。ヘロデは拝むどころか、自分の「王という地位」を守りたかった。自分の王という立場を脅かす者は、決して生かしてはおかない、という卑劣な人物。しかしイエス様が来られたのは、この世の王としてではなく、人生を導く主として、たとえヘロデのような卑劣な人間でさえも、イエス様を救い主として受け入れるなら、その人の心の内に住んで下さって、その人の人生を導く王となるのです。 

ヘロデの残虐な行為も預言されていました。エレミヤ書3115節の言葉の成就ですが、この箇所で「ラケル」が出てきました。創世記でも読みましたようにヤコブの愛する妻であり、ラケルがヨセフを産んだとき、「また男の子を加えてくださいますように」と言って、彼の名をヨセフと名づけ、次に妊娠したのですが、それはラバンの家から故郷に戻ってくる途中ベツレヘムに行く道で生まれそうになり難産でその苦しみの中でラケルはベニヤミンを産み、死んでしまいました。

 ラケルが泣いているというのは、このラケルの苦しみ、子と別れなければいけないという悲しみを表しています。「ラマ」は、エルサレムの北にある町ですが、紀元前587年頃のバビロン捕囚の時代、バビロンが南ユダ王国の民を捕え移す時に、まずラマに連れて行きそこからバビロンに移しました。そこでイスラエルの子らがバビロンに引かれていくその悲しみを、母が子を失う悲しみにたとえていますが、マタイはイエスを殺そうとしたヘロデ大王が、ベツレヘムの子らを殺した時の母の悲しみに当てはめているのです。

 「ラケル」はイスラエル民族の母として象徴であり、ベツレヘムの途中に葬られました。マタイは旧約聖書の言葉を実際の出来事にあてはめていますが、悲しい出来事の後に必ず祝福があるという希望があるのだとも意図しているのです。このエレミヤ書3115節の言葉の後を読むと バビロン捕囚の後でもイスラエルの民は必ず帰って来るという希望です。エレミヤ311617節「主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。-主の御告げ-彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。-主の御告げ。-あなたの子らは自分の国に帰って来る」

ベツレヘムで起きた2歳以下の男の子が殺されてしまうという事は悲しい事でしたが、 その悲しい出来事の後に祝福がある、その祝福とはメシアであるイエスキリストによってもたらされる希望へとつながっていくのです。私達は何か大切な事を失ったり、悲しい出来事にあったりすると神も仏もあるものかと思いがちですし、心が神から離れてしまような者です。しかし、そのような状況だからこそ、神により頼むべき存在なのだと認める事が大切なのです。これはまさに「神などいない」と言わせてしまう悪の力と、すべてを治めておられる神との戦いです。神は勝利者です。

パウロはローマ人への手紙837節でこう言いました。「私達は、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」どんな困難の中にあっても主が共にいてくださるので圧倒的な勝利者であり、どんなものも私達を主である救い主イエス様から引き離す事は何もないのだ!と宣言する事が出来るのです。

皆さんもよくご存知の星野富弘さんは、作品でこのような詩をお書きになりました。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが 苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」

私達にとって大切にしている物、手放すことが惜しいと思っている物は何でしょうか?もしそれを失った時、どのような心の状態になるでしょうか? いのちよりも大切なもの、それは命をかけて愛を示されたイエス様の愛です。それを信じている私達は持っているのです。

 

19節から23節をご覧ください。ヘロデが死んだのは紀元前4年頃です。主の使いが夢の中でヨセフに現れてヘロデが死んだのでエジプトからイスラエルに戻りなさい、と促しました。それに従ってヨセフはイスラエルに行きますが、ヘロデの息子アケラオに対して恐怖と不安がよぎったヨセフの心を主がご覧になって、夢の中で「ガリラヤ地方へ行きなさい」と促され、ナザレという街に住んだのです。マタイはここでも旧約聖書のイザヤ書111節の預言の言葉「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」という事の成就であると言いました。エッサイの根株から生えて来る新芽、若枝とは身分の低い者と理解されていましたから、ナザレという知名度も低く、異邦人の多い小さな村から救い主が出て来るとは誰も思っていない、イエス様の弟子となったナタナエルでさえ「ナザレからなんの良いものがでるだろう」と言ってしまうくらい、旧約聖書にも出てこない、知られていない小さな村、そして救い主はベツレヘムに生まれると旧約聖書には書かれていましたが、目立たないように安全にいるためにあえてナザレの村で生活していた事も、すべて主なる神のご計画の中に主の守りのあったのです。

 

このように、イエス様の誕生と育っていく過程には、父となったヨセフの信仰が大きな鍵となっています。ヨセフはいつも主の声をたよりにして従った人でした。

 

私達の信仰の成長を育むために必要な事はいつも聖霊様の満たしを求める事です。

明日はペンテコステ、イエス様が「もう一人の助け主を送る」と約束してくださった聖霊様が天より下られたことを記念する日です。

私達かぬまプレイズチャーチの年間聖句はエペソ人への手紙5:1819「御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」です。御霊に満たされ続ける事は、神のいのちにあふれてきる事、神の子供とされている恵みをいつも喜んで感謝する事です。もし、その恵みを味わっていない自分の力で頑張っているクリスチャン生活なら、とっても疲れ果ててしまうでしょう。アメリカのピーター・ロード牧師は恵みの喜びに生きていないで、神様に何かを期待したり、人からの評価で奉仕しているならそれは動機が間違っている、と次のように例えて言っています。「もし私達が一生をかけて最高の味のアップルパイを作り、死んだとします。しかし、神がアップルパイを好きではなかったらどうでしょう」

私達が救われたのは、主のために一生懸命に働くためではなく、主を親しい交わりをするため、その親しい交わりの延長に神と育む愛の関係を築くためです。ひとりひとりの存在はそのままで主は喜ばれているのです。今日、皆様と礼拝しているこの時間や、交わりの時間が楽しく喜び溢れるものでなければ、意味がありません。そのためには互いの違いを認め合い、主に向かって歌い、感謝をささげる場であるべきなのですし、それによって祝福を得るのです。

 

様々な困難の中、幼子イエス様の誕生と成長、そして家族を支えたのは、いつも聖霊様に導きを得て、御言葉に従ったヨセフです。私達もそのように求めていきたいと思います。

 

最後にクリスチャの方を紹介します。アフラックとして知られているアメリカン生命の副社長であるダン・マッコンヒーさんです。

彼はバイクに乗っていてある時、郊外の交差点で車が割り込んできて大きな事故に巻き込まれました。2週間の昏睡から目が覚めた時には肋骨は6本折れて、左肺損傷、鎖骨骨折、肩甲骨骨折、5か所の脊椎骨折、最悪なことに壊れた骨のすべてで麻痺が残ったのです。神経外科医は、彼が再び歩くのは不可能であると奥様に話していました。それから9年たった今でも車いすの生活です。事故から意識が戻りその一か月後、車いすでなんとか病院内のチャペルで祈れるようになりました。当時は「神様、どうか癒してください。どうか以前のように歩けるように、旅行やスポーツが楽しめるようにしてください」と祈ったそうですが、ずっと車イスの状態です。その中でダンさんが神様から教えられた事を次のようにお話しされています。「私が学んだことは、人生は私自身の快楽のためではなく、主のごとくになるためにあるのだと思う。不幸にも人生の出来事全てはハッピーエンドな虹のようではない。人生は時に荒野である。今日を乗り切れるようにと祈り神に頼る時、その時こそが私達が神に形作られる時なのです。私の祈りは9年前とは変わりました。以前は私は都合の良い祈りの願いばかりしていました。しかし今の私の祈りはこうです。「主よ。私は、今日、忠実に過ごすことが出来たでしょうか。」

交通事故という悲惨な出来事は、私自身を神によって新しくしてくださったとすべてを感謝な出来事に変えられてします、とダンさんはお話ししています。

  

   ローマ書828節「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私達は知っています」とありますが、これをフランシスコ会訳でみると「聖霊は、神を愛する人、すなわち、ご計画に従って神に召された人とともに働き、すべてが益となるように計らわれることをわたしたちは知っています」 「益となるように」とは人生にとって一番プラスになる事、それはイエス様のようになることです。どうしてそう解釈するのかというと、29節「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです」とあるように、イエス様を信じる事によって、私達をご自分の子として愛してくださり、イエス様のように変えられていく人生を歩む事ができるのだという事です。それは自分の力ではなく、聖霊様の助けによって変えられ続けるのです。

着物の帯やステッチ刺繍の裏と表をイメージしてください。天の父なる神様の御手によって、人生にいろいろな模様が造られていき、イエス様に似るようにしてくださるのです。いろいろな色の糸が絡んでいる裏を表に返すと美しい模様になっているように、いま困難の中にいたら、人生の中で美しい模様が神様によって造られていると思ってください。順調な中にいたら、その美しい模様を楽しみ主への感謝と賛美が沸き上がるように、喜んでください。

 

 ペンテコステを覚える時期、どうぞ聖霊様との親しい交わりが豊かにあり、おひとりおひとりが、イエス様にさらに近づくことができますように、お祈りします。