2017114日マタイ8章1節-4節「イエスは癒す方」

 

11月に入り、だいぶ冷え込んできました。年の終わりすら感じる季節となりましたが、皆さんは今年一年どのように過ごされたでしょうか?残り2ヶ月ほどですが、共に主の素晴らしさを知るときとしたいと願っています。来週には、新会堂で礼拝となります。この小さな群れにも新しい季節がやってきています。主に期待して進んでいきましょう。

さて、私は小さな頃から周りにいた大人たちにずっと言われてきた言葉があります。それは何だと思いますか?それは、「髪の毛は生えている内に楽しみなさい」でした。何故かは分かりませんが、教会の優しい大人の方たちが揃って、私の将来の毛根を心配してくれました。特に、私の父を知っている人は・・・です。実際に、隔世遺伝から見ても、私は母方も父方も、ハゲの家系なのです。私は、私の家族。特に両親に感謝していますが、2つのことだけは受け継ぎたくないと小さな頃から思っていました。一つは「ダジャレ」、もう一つは「髪の毛」です。今は、もう主に委ねようと思っていますが、高校生の頃は本気で心配していました。そんな高校生の時に、聖書の中でよき知らせを見つけました。レビ記13章の言葉です。「男の頭の毛が抜けても、それははげであって、その者はきよい。もし顔の生えぎわから頭の毛が抜けても、それは額のはげであって、その者はきよい」(レビ13:40-41)ハゲはきよいのですね。

さて、この言葉は、単純に励ますための言葉ではありません。レビ記13〜14章は「ツァラアト」。第二版では「らい病」とされる病気について書いてある箇所です。今日の箇所も、ツァラアトに侵された人が出てきます。この病気は、大変な病気でした。ですから、ハゲとツァラアトの見分け方を書いた箇所なのです。

今日は、「イエスは癒す方」と題して、イエス様を求める男の信仰と、イエス様の心とその力を学んでいきたいと思います。

1節には「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った」とあります。このイエスが山を下り来られたというのは、5章から続いていた山上の説教が終わったということを意味しています。その要約として、7章の結びでは「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(7:28−29)とされています。

イエス様の教えは、他の宗教学者との教えと違いました。それは「権威」があったのです。イエス様は真実を知っており、語っていたからです。それは、まるで裁判官が「〜である!」と宣言しているようです。イエス様は、全てのことの「最終的な判決の権利」を持っています。ですから、他の学者とは違ったのです。

しかし、言葉だけであれば人はなんとでも言うことができます。そこで、山を降りられたイエス様は、その権威が本物であることを示すために、「癒し、悪霊を追い出しなど」をされます。パウロも言っています。「神の国はことばにはなく、力にあるのです」(1コリント4:20)と。今日の箇所は、その始めです。ある男が出てきます。

「すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』」(8:2)

「ツァラアト」とはどのような病気でしょうか。先ほど、簡単に話しましたが、聖書では多く登場し、危険視されている病気でした。聖書からわかることは、初めに皮膚にはれもの、かさぶた、あるいは光る斑点ができること。そして、しばらくすると、患部の毛が白く変わり、その患部が他の皮膚よりも深く見えているようになることです。皮膚に傷ができて、その症状が進行を見ることができるときに、祭司によって汚れていると宣言されます。

感染する病気であると考えられていたために、ツァラアトの人々だけが住む町が定められており、他の人々と共に住むことはできませんでした。もしも、他の人が住む町に行くのであれば、「私は汚れている!」と叫ばなくてはいけない[1]。という規定もあったのです。

また、この病気は、宗教的な「汚れ」だとも考えられていました。それは、神様から見放された者の象徴ですらあったのです。ですから、彼らがどのような気持ちで暮らしていたかは想像に難しくありません。人々にのけ者にされ、買い物に行く度に、自ら「汚れている」と叫ばなくてはならない。「あいつは、神にも捨てられたのだ」と多く言われたでしょう。すると、自分には価値がないと心が沈んでいくのです。

このような中にあって、今日の人物は、他の患者とは違っていました。気持ちが沈んで何もしない人ではなかったのです。イエス様の周りには、多くの群衆がいましたから、ツァラアトに侵された人がイエス様に近づくことは決して簡単なことではありませんでした。近づこうとする度に、「おい、お前はあっちに行け!」。「なんで、お前みたいなやつがここにいるんだ!」とも言われたかもしれません。しかし、彼は「イエス様なら、私を癒してくださる」と信じ、これにかけたのです。彼はイエス様のみもとに着くなりひれ伏して言いました。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」ここに、2つの彼の信仰を見ることができます。

1つは、「イエス様は癒すことができる方」であるということです。当時、ツァラアトは「治らない病気」であると考えられていました。旧約聖書では、「イスラエルの王はその手紙を読んだ時、衣を裂いて言った、「わたしは殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。どうしてこの人は、らい病人をわたしにつかわして、それをいやせと言うのか。あなたがたは、彼がわたしに争いをしかけているのを知って警戒するがよい」」(2列王5:7)ともあります。しかし、彼はイエス様なら癒すことができるとその力を信じました。彼は、イエス様なら「何でもできる」と信じたのです。そして、その信仰によって彼は奇跡を経験しました。

2.「イエスは癒すことを望まれる」

もう一つは、「イエスは癒すことを望まれる方」という信仰です。人々に嫌われていた自分でさえも、イエス様なら憐れんで癒したいと願ってくださると信じたのです。「お心一つできよめることができる」とは、「お心でないなら癒されなくても良い」という意味です。しかし、彼はイエス様に信頼したのです。そして、イエス様はその信頼に応えられました。イエス様は彼を触れられたのです。ツァラアトは感染する病気ですから、彼は誰からも触れられることはありませんでした。イエス様が触る。これは「私はあなたが癒されることを望む。私はあなたを大切に思う」という意味なのです。イエス様は痛む人に「触られる方」です。また、イエス様は「証のために祭司に見せなさい」と言いました。旧約聖書には、祭司が「きよめられた」と言う者は、一般の社会に戻ることができるとありました。イエス様は、彼が社会に回復されることも望まれたのです。

峰町キリスト教会の牧師である安食先生がよく言う言葉があります。「奇跡の神と共に生きていて、奇跡を経験しないほうが奇跡だ。」私たちの神様は、人間を祝福したい、癒したいと願われる神様です。それではなぜ、度々私たちは時に奇跡を経験せずに生きているのでしょうか?イエス様も地上で、みわざを為し得ない時がありました。「そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった」(マタイ13:58

それは、人々の不信仰によってです。奇跡は、私たちがイエス様に信頼して託して行った時に起きるからです。

この奇跡も、男が信頼してイエスのみもとに来て、イエス様が「触れられた時」に起こったのです。私たちが奇跡を見ない理由は、「主に信頼していない」からかもしれません。また、もう一つの理由があります。それは、イエス様が「手を伸ばすことができない」からです。私たちはキリストの体です。今は、私たちを通してイエス様は奇跡をなさいます。イエス様自身が、祈りに応えて奇跡をなさることもありますが、私たちを通しての奇跡も多くあるのです。ジョン・V・テイラーという学者が、「仲介者なる神」という本の中で、「共同体としての癒し」ということを示しています。そこでは、「(聖書の中での癒しは)罪の赦しと結びつけられて、赦され・赦す共同体という脈絡の中にある。それは、特別に賜物を与えられた個人の賜物ではなく、聖霊に満たされた生活共同体への賜物である」と説明しています。奇跡をたくさん行う癒しの器もいますが、それよりも多くは、「コミュニティー」を通して聖霊様は癒されると思うのです。

私が、UICSの学生であった時に、多くの心の傷ついた学生に出会いました。多くの実例がありますが、その一人は「TK」さんです。私よりも4つ学年が上でしたが、彼も入学当初は非常に暗い顔していました。色付きのメガネをしていて笑うことなんてなかったのです。しかし、UICSというコミュニティーに属して時間が経つにつれて、笑顔が出てきて、メガネの色も取れて、年下の私にも良くしてくれました。中学生の頃から、本当に尊敬している人の一人です。学校や様々なことで傷ついた心も、特別なことはしていませんが、神のコミュニティーで過ごす中で、「聖霊様による癒し」を経験したのです。

当時は、私はなんで癒されるなどは分かりませんでした。しかし、今は「主のみわざ」だと分かります。教会、神のコミュニティーには、癒す力があります。何もしなくても、聖霊様が「共同体を通して働かれる」のです。しかし、私たちが、主と共に働くことを拒否するのであれば、イエス様の手を広げることはできません。主に使ってもらう、主の心をなす教会を目指しましょう。

今日は、イエス様は、今も「癒す力がある方」であること、また、今も「癒したいと願われる方」であることを学びました。必要がある方は、どうぞ豊かに与えくださる方に大胆に求めましょう。祈りましょう。また、私たちもその方の体として豊かに使っていただき、主の奇跡を見たいと思います。

[1] 「患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない」

(レビ13:45-46