2016年5月7日創世記19章「ソドムとゴモラ」

 

あるクリスチャンのセールスマンの話しです。

このセールスマンが商談に行くのは、繁華街。車で繁華街に行った彼は駐車場を探しましたが、なかなか見つからず、商談の約束の時間がせまっていました。しかたがないので、路上駐車をしようと車を停めて、もし警官が来た時のためにメモを車内に残しました。「この車の持ち主である私は敬虔なクリスチャンで、信仰をもって30年になります。毎日聖書を読み、ボランティアをし、今までマジメに生き、一度も違反をした事がありません。聖書には、『我の罪を赦したまえ』とあります。事情があってここに駐車することをお許し下さい」という内容でした。彼が商談を済ませ車に戻ると、彼のメモの隣に、警察官の残したメモがありました。その内容は「こんにちは。私はこの辺りを取り締まっている警察官です。奇遇ですね、私も約30年のクリスチャン人生を送っています。私もあなたと同じようにまじめに取り組んできました。聖書には『あなたの隣人に偽りの証言をしてはならない』私の上司に嘘はつけません。」というものでした。そのメモには駐車違反の切符が挟んでありました。

 

人間は、時々 ごまかそうとします。しかし、神様の前にはごまかせないのです。聖書には「人はうわべを見るが、主は私達の心を見る」神様の目には、心もすべても見透かされています。

 

今日の聖書は創世記19章です。ここでは「ソドムとゴモラ」という町が出てきて、そこに神の裁きが下るという内容です。それは彼らの罪のゆえにです。神様には「ソドムとゴモラ」の町の人々の様子がすべてお見通しでした。前の箇所の18章で3人の旅人でと2人の御使いがアブラハムに現れて、この町に裁きを下さす事を伝えると、アブラハムは一所懸命に「この中に誠実な人がいればどうぞ裁かないでください」と執り成し、神様は「わかった」と承諾してくださいました。

アブラハムにとって愛する甥のロトがいたからです。「神様、どうかそこに私の家族にいるのです。だから助けて下さい」と懇願したのです。ちょっと前、一緒に旅をしていた時にいざこざがあって、

アブラハムとロトは別々に歩む事にしました。ロトが選んだのは、豊かで栄えていた地を選び、

多くの人々が住み、いろいろな文化があり、神様を恐れる人々がなく、不道徳に陥ってしまった町でした。

今日の箇所の前半を見ると、ロトの前に御使いが現れます。それを見かけた町の人が追いかけてきてロトの家のドアを「ドンドンドン」とたたきます。そして「おい、いま来た奴らを出せ」と言います。しかしロトは出さないように頑張ります。しかしドアが破れそうになったので、御使い達がロトの前に来て手を伸ばすと、乱暴な奴らに目くらましを食らわせ、ロトに「家族を連れてここから逃げなさい」と言います。そして夜が明けると15節「さあ立って、あなたの妻と、ここにいる二人の娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう」と促します。するともう一人の御使いが17節「命がけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこでも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」と忠告しました。しかし、1人振り返ってしまった人がいます。それがロトの妻です。彼女は、その場で塩の柱になってしまいました。そしてソドムとゴモラは火によって滅ぼされてしまったという話しです。イスラエルに行くと今でもロトの妻の塩の柱が死海のそばにあります。

死海は地上で最も低い場所で、地上から-400Mの所にあります。ある方はすぐにでも行きたいと思われるでしょう(笑)この死海を英語ではDEAD SEAと言いますが、塩分が30%で生き物が全く住めない所として知られており、塩の浜で、また浮力があり、人間も20分つかると塩漬けになってしまいます。水が流れても、どんどん塩分濃度が高くなり、いまは水位が低くなっています。

最近、イギリスの研究チームが「ソドムとゴモラ」が本当にあったのかと研究しています。

インターネットでこの周辺を見ると、眩しい位真っ白です。なぜなら、全部が石灰石で出来ていて、

イギリスのチームがそこの土壌を調べると「硫酸カルシウム」が地層から発見されました。「硫酸カルシウム」は石灰石が硫黄で燃やされると発生する物質です。ですからそのように燃やされる事があったという事。そして真っ白な石灰石の間に真っ黒な灰が挟まっており、そして硫黄の塊も発見されています。硫黄は火山地帯に見られる事はありますが、例えば、那須の殺生石などに見られる硫黄の純度は40%のものですが、この「ソドムとゴモラ」のあったであろう死海周辺で見られる硫黄は98%の純度で、その位の高純度の硫黄は、その精製出来る技術があるか、聖書の記述どおり硫黄の火の塊が降ってきたと2つに1つになります。そして結論は聖書の記述通りであると研究者は発表しました。科学が進めば進む程、聖書の記述がどれだけ真実なのかと証明してくれます。

 

今日の聖書箇所から私達が学ぶべきことは、「神の声に耳を傾け、従う事で救われる」15節「さあ立って、行きなさい」という忠告に従ってロト達は町を出て行きました。でも、その声を聞かなかった人たちは滅ぼされました。この箇所はノアの方舟の話しを思い出させます。ヨハネ14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちです。私を通してでなければ誰ひとり天の父のみもとに来ることが出来ません」とイエス様がおっしゃいまいました。

聖書を見る限り、私達はだれでも罪を持っています。その罪がある限りは誰ひとり天の父のみもとに行く事が出来ません。どんなに努力して罪を償おうとしても無理です。だからこそ、イエス様のおっしゃった「わたしが道であり、真理であり、いのちです。私を通して(イエス様を救い主としてただ信じること)のみ天の父のみもとに行く事ができます」

神の御声に従う事だけが、私達を救いに導く事が出来るのです。

では、救われた私達はどうするべきか?それは日々、神の御声を聞き続ける事、神様と深い交わりを持つ事です。

今日の箇所でロトの妻は「振り向いてはいけない」と言われたのにも関わらず、振り返ってしまったのです。私達は、「ああ、言われた通りにすればよかったのに」と思いますが、なぜロトの妻は振り返ってしまったのでしょうか? それは「ソドムとゴモラ」の豊かな生活に、所有していた物に未練があったからです。御使いが「振り向いてはいけない」と言った意味はこうです。「今まであなたが積み上げた物に目を向けるのではなく、これから神様があなたに用意して下さる事に目を向けなさい」という事なのです。つまり「目に見える物にではなく、信仰の目をしっかり開いて

神様をしっかり見て歩みなさい」という事です。ロトの妻は信仰の目が開いていませんでしたし、ロト自身も信仰の目がかすんでいました。15節で御使いが「さあ立ち上がって行きなさい」と言ったのにも関わらず、16節を見ると「しかし、彼はためらっていた」とあります。

 

私達にも、信仰の目を逸らしてしまう事があります。神様が「こっちの道を歩みなさい」と言っても、「私はあちらに行きたいです」とついつい思ってしまいがちです。

 

Iヨハネの手紙2章15節-16節「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」

私達は、この世の生活に目を奪われがちです。その欲は神から出た物ではないのです。肉の欲とは「自分の思い通りの事をしてしまう」、目の欲は「外見を気にしたり、見た物を欲しがる事」、暮らし向きの自慢とは「他人に良く思われたい」という思いです。これらの事は神から出たのではないのです。この地上で初めて罪を犯したのは、アダムとイヴです。「食べてはならない」と言われたのに食べてしまったのはなぜでしょう?創世記3:6「そこで女が見ると、その木はまことに食べるのによく、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった

自分の欲を満たすために、罪を犯してしまったのです。

欲を何のために使うのかが大切です。全ては神様の栄光のために用いるためです。

まず主の御心を聞く事、聖書の言葉を心に蓄える事が、私達を誘惑から守る事が出来るのです。

 

ハワイの教会の若い牧師が一所懸命やりすぎて疲れてしまいました。そしてベテランの牧師に「もう辞めたい」と相談しました。ベテランの牧師は若い牧師に「あと2週間、考えなさい。ただ一つ、毎朝 聖書を読みなさい。それだけを2週間続けなさい」と言いました。若い牧師はそうしました。すると「わかりました。聖書を読んで、牧師を続けます。神様がそうしなさいとおっしゃったのです」彼はIペテロ5:2「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい」という御言葉に励まされ、牧師という働きを続ける決心をしました。

神様は御言葉で私達は導かれます詩篇119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇19:11「またそれによってあなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば報いは大きい」とある通りです。

 

私達はいつも選択の連続です。一日平均300回選択します。そのうちの30%人生の選択をしています。では、人生の選択をどのようにしているでしょうか?自分の欲求を満たすために選んでしますか?それとも神様の喜ぶように選んでいるでしょうか?神様の御声を聞きましょう。

 

今日の箇所からもうひとつのテーマがあります。30節以降に書かれている内容です。ロトの2人の娘が父であるロトと関係を結び、子供をもうけます。1人がモアブ、もう一人がベン・アミです。

この出来事、この2人の息子はモアブ人とアモン人の先祖となり、後のイスラエルに大きな影響を与えます。イスラエルの敵となるのです。娘たちの策略ですが、神の前に罪を犯してしまったのです。聖書には「蒔いたものを刈り取る原則」が書かれています。ガラテヤ6:79「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる」

これは因果応報ではなく、神様の前に良い行いをしなさいという事です。神様は祝福したいと願っておられるので、祝福の種を蒔くように、祝福をしてくださるのです。

どのように祝福の種を蒔くのか?

マラキ3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」

喜んで捧げることによって神様はさらに祝福しようと待っておられるのです。

 

ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです」

祝福の種を蒔くと、それ以上に神は祝福してくださるのです。それを期待して良いのです。

 

 

最後にクリスチャンの方を紹介します。森永製菓創業者 森永太一郎さんです。

自分の会社を神様のために用いたいと考えました。太一郎さんが幼い頃、両親が早く亡くなり養子に出されます。そして19歳の時に商売をしたいと思い、そして20歳で結婚。彼は一流のビジネスをしたいと上京します。はじめは良かったのですが、売上が落ち、アメリカに行けばどうにかなると思い、渡米し陶器を売るビジネスを始めましたが、上手く行かず借金まみれになりました。

日本に帰るお金もなくなり、途方にくれて公園でうなだれていると、ある女性が「どうしてたの?元気出してね。」とキャンディーをくれました。彼は初めて食べたキャンディーに感動し、キャンディーを作るために修行をしたいと思い立ちました。しかし当時のアメリカは人種差別が厳しく

日本人の太一郎さんは住むところさえなく、転々としましたが 最後に行きついた住処はクリスチャンの老夫婦の家でした。そこで受けた温かさに感動し、その老夫婦と共に教会に行くようになり、聖書を読み、しばらくしてオークランド日本人教会という所で太一郎さんは洗礼を受けました。

それから彼は日本に帰りますが、お菓子づくりの修行をしたのにも関わらず故郷の伊万里で伝道師になろうと決心し、家族に伝道します。すると親戚一同、あの太一郎は気が狂ったと思われて、家族からも親戚からも絶縁されてしまいました。落ち込みましたが、「神様はお菓子作りを通じて伝道しなさいという事かもしれない」と思い、再度渡米し、もう一度修行しお金をためて帰国し、今度は東京で起業します。そして赤坂で森永西洋菓子製造所を始め、キャンディーを作りそれが大ヒット。リヤカーを引きながらお菓子を売りながら、リヤカーに「キリスト・イエス、罪人を救わんために世に来たりたまえり。」第一テモテ1章15節 「義は国を高くし、罪は民をはずかしむ」箴言14章34節という言葉を掲げて商売をしました。多くの人は、太一郎は耶蘇の菓子屋と言われかえって有名になりました。東京大震災が起きた時、無料でお菓子を配りました。その後社長を引退し、全国で「我は罪人の頭なり」と題して講演をして回りました。森永の子供用ビスケット「マンナ」(1978年販売開始)は聖書に出てくる「マナ」という神から与えらたパンから名づけられています。

 

私達は神様ご自身に期待しましょう。必ず祝福してくださいますから!