2017422日 マタイ11「約束のメシア」

 

皆様の祈りに守られて、17日に起工式が無事執り行われました事を心より感謝申し上げます。式では 詩篇127篇と第1コリント人への手紙3章10節11節が読まれました。詩篇127篇1節「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」すべての土台は、導きは私達の主イエス・キリストです!

主イエス様が私達に志を与え、成し遂げてくださる。これがどれほど大きな支えでしょうか!!

 

今日から「マタイの福音書」になります。今日は1章1節より、マタイの福音書がどんな目的で書かれているのか、全体的にどんな事を私達に教えようとしているのかをご一緒に考え、主の恵みに与りたいと思います。

 

皆さんが学校やホテルなどで手にとってみたことのあるギデオンで配布している聖書。1ページ目にはカタカナの羅列。これで聖書は意味不明の難しい書物と思って、パタンと閉じてしまいそうになると思います。幸い、ギデオンの聖書には「・・・の時に ページを開きましょう」とガイドがあるので、助かりますが・・・。

 

私達は長い時間をかけて「創世記」をご一緒に読んで参りましたから、今日の箇所の

1節のカタカナの名前は理解がなんとなく出来ると思います。

このマタイの福音書が書かれたのはAD60年から65年、ある学者によるとAD80年代ともいわれますが、今から約1900年以上前に書かれたものです。その頃に、このマタイの福音書を、それよりも少し前にかかれたと言われるマルコの福音書や同時に書かれたルカの福音書を新約の冒頭に置くのではなくマタイの福音書が一番先に置かれたのか、当時のイエス様を信じていた人達がユダヤ人達であり「それは自分たちの信仰の源は旧約聖書いわゆるユダヤ教にある」と意識したからです。マタイの福音書はユダヤ人にとってだけではなく、私達クリスチャンにとってのルーツを思い起こさせます。

イザヤ書511節・2節「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを」

 日本人もそうですが、ユダヤ人はさらに家系図を重要視します。創世記の中でもそうでしたが、旧約聖書には多くの系図が書かれています。マタイは家系を重んじるユダヤ人の伝統に従って、読む人が「イエス・キリストが約束されたメシア・救い主だ」という事を明らかにしたのです。ですから、この1章を読むと旧約聖書を大切にしているユダヤ人にとって、それぞれの人物と時代背景を理解する事が出来るのです。そしてイエスキリストこそ、「アブラハムの子孫」ユダヤ人として、「ダビデの子孫」王の王として来られたお方であり、旧約聖書の預言の成就であると、マタイは言いたかったのです。ギリシャ語の原語を見ますと、この1節実は「ダビデの子孫、アブラハムの子孫」と逆になっています。アブラハムが先に生まれたのに、ダビデが先に書かれているのです。それは、マタイによる福音書が、ダビデの子孫であるキリストの側面が強く現れているからです。マタイは、聖書に預言されていた約束の王が来られた事を中心にして、この福音書を書いたのです。これを読むだけで、待望のメシアだという事が一目瞭然なのです。ですから、ユダヤ教の人はマタイの福音書を読むことを禁止するくらいに避けています。逆に言えば極端な言い方ですけれども、マタイの福音書を読むとイエス・キリストをメシアだと信じるユダヤ人が増える、実際にメシアニックジューといってイエス様を信じているビリーバーが増えてきています。これは聖書の預言にあるように、イエス様のご再臨の鍵を握っているのがユダヤ人ですから、ユダヤ民族が「イエスキリストこそメシアである。イエス様来てください」という時にイエス様のご再臨があるのです。それまでは私達を含む異邦人の救われていく時であり、救われている私達はイスラエルのために、ユダヤ人が一人でも多くイエスキリストをメシアだと信じる事が出来るように祈る事が使命なのです。

 

 創世記の時にも紹介しましたが、主なる神がアブラハムと約束したことは、イエス様を信じる私達にも有効です。覚えていらっしゃいますか?創世記12章3節「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」

 「ダビデの子孫」と書かれていることで王の王なるお方、ダビデ契約を成就するお方として来られた事を示しています。ダビデ契約とは第2サムエル記7章の1節から29節

に書かれている事ですが、この契約が成就するのはメシア王国(いわゆる千年王国)の時に成就されます。これから起こる事です。第2サムエル記7章の11節から16節を抜粋し紹介します。「・・・さらに【主】はあなた(ダビデ)に告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子(イエス様)を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」

 今日お読みいただいた1行に多くの大切な事、希望の約束が含まれているのです。

 

この長い家系図は、イエス様が私達のような罪人のために来てくださった事がわかるように示しています。

 この福音書を書き残したマタイは、ユダヤ人取税人でした。彼はこの職業につくために高いお金を入札して手にいれた仕事でした。当時のイスラエルはローマの支配下にあって、税金を集める仕事につく権利をローマから買ってまでやるほどに、魅力があったのです。ローマ帝国の代理人として同じユダヤ人より税金や罰金を取り、その額に自分の懐にいれる額を上乗せしたので、非常に儲かった仕事ですが、同時に徴収される側のユダヤ人から嫌われる仕事でした。もしかしたら、彼は人から一番嫌われた取税人かもしれません。人生の価値をお金に見出す事しかなかったマタイの心の中にイエス様が何か魂の叫びを、もしかしたら潜在的な可能性を感じて、イエス様の方が出会ってくださり、イエス様の招きに従って、その職業を捨てて従ったのです。マタイはイエス様のことを知っていたはずです。もしかしたら、イエス様の話を身近に聞く機会があったかもしれません。イエス様の教えを聞いて、その言葉のひとつひとつがマタイの心に届いていて、すばらしい教えをするイエス様が声を掛けてくださった。マタイは素直に従って、それまでは自分のために使っていたお金や時間や能力をイエス様のために使うと決断したのです。マタイとは「神の賜物」という意味でもあります。英語の発音はMatthewです。マタイという名前になる前はレビというありふれた名前でした。ルカの福音書5章27節・28節でマタイについて書かれています「イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」

 マタイは自分が救われた喜びを特に同じユダヤ人に伝えるために、またこの福音書の最後に復活したイエス様が弟子達におっしゃったように、あらゆる国の人々の救いのために書き残したのです。2818節から20節「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」

 

マタイの福音書の中心聖句は517節「わたしたが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」のイエス様の言葉です。私の卒業させて頂いたJTJ宣教神学校で、岸先生の講義で「マタイの福音書は律法と福音の対決である」とおっしゃいました。

 マタイの福音書の特徴は「ユダヤ人クリスチャンの福音」「すべての民のための福音」「教会のための福音」「旧約聖書に深く基づいた福音」です。

 まずイエス様の誕生と公生涯への準備、主にガリラヤ地方での公の活動、弟子たちへの訓練、ユダヤ地方における活動、その活動の中で未来に対するイエス様の教え、そしてイエス様の十字架の死と復活が書かれています。

 マタイが「イエスキリストの系図」とはじめに書いた理由は、「系図」という言葉の原語ギリシャ語ではゲネセイスと言います。ゲネセイスは英語でジェネシス、そうです、創世記をジェネシスといいますから、マタイが系図としたのは「イエスキリストの新しい始まり」「あたらしい創造」と言いたかったのです。

新しい教え「神を愛し、その愛で自分を愛し、自分を愛するように隣人を愛する事」だとおっしゃいました。先週はイースターを覚えましたが、同時にユダヤ人が大切にしている過越の祭りの時でもありました。イエス様が十字架に掛かられる前の晩の食事の時に弟子たちに、私達に教えられた大切な事です。ヨハネの福音書13章に書かれています。特に34節35節「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」

 

天の父なる神様が喜ばれることは、一緒懸命に聖書に書かれている事を守って立派な行いをする事ではありません。そんなことは無理です。天の父なる神の愛の中に、恵みの中に生き生きとした交わりを持つ事、そして救いに預かったひとりひとりが愛し合う事が、神様に喜ばれる事です。

先程も岸先生が用いたマタイの福音書を紹介する言葉「律法と福音の対決」。福音の喜び、恵みの中で、生き生きとした信仰生活を送りたいと願います。

もし私達の信仰が生き生きとしたものでなかったら、証しになりません。自分の信仰生活を他の人がみて、イエス様を信じている人は良いなと思ってもらえるようになりたいと思います。

 

ある男の子が小学校に入学しました。図画の時間の事です。担当の先生が「さあ、今日は絵を描きましょう」というとクラスのみんなが「わー、ぼくはライオンを描く」「わたしは大好きなお人形の絵を描く」「じゃー僕は車」とワイワイ ガヤガヤ言いながら、クレヨンを取り出して描こうとすると、先生は「みんな静かに!まだ描かないで。先生の指示にしたがって。今日はお花を描きましょう」するとみんなは思い思いの色を取り出して描き出しました。すると先生が言いました「ちょっと黒板をみてください。先生がお手本を描きますから、こんなふうにお花を描くんですよ。いいですか!」そうして、クラスのみんなも、その男の子も花を見るのではなくて先生のお手本を見ながら絵を描きました。

次の工作の時間では、先生が「さあ、みなさん今日は粘土で工作ですよ。先生がお手本を作りますから、それを真似して作ってみましょう」それでクラスのみんなは同じような作品をつくりました。クラスの子供たちも、その男の子もお手本を真似る事を覚えましたが、自分で好きなものを作ろうとは、思わなくなりました。

 そのようにしばらく学校生活を送ったある日の事、男の子は家庭の都合で学校を転校する事になりました。転校先の学校の図工の時間に先生が言いました。「今日は絵を描きましょう」みんなが「嬉しいなぁ」と騒いでいる中、男の子はじっと先生の指示を待っていました。先生が「どしたの?絵を描きたくないの?」男の子は「絵を描きたいけど、なにを描いたら良いでしょうか?」すると先生は「好きなように好きな色で描いていいのよ。だってみんな同じ色で同じ絵を描いたら、先生には誰が何を描いたのかわからなくなるでしょ?」先生の言葉は男の子の心をほっと解放してくれました。

 

 イエス様の愛も同じです。これからしばらくの間、マタイの福音書を学んでイエス様の愛を恵みをもっと知って、イエス様との親しい交わりが深まれば幸いです。

 

お祈りします。