2016年7月9日創世記27:1-40「祝福を奪い取る」

 

 最近、私の関わっている小学3年生の男の子との会話をひとつ、分かち合いたいと思います。その子は男の子4人の兄弟の一番下で、理由があってお母さんはいません。お父さんも家にいたり、いなかったりで、おばあちゃんがすべての面倒を見ています。もうすぐ夏休みなので、その子も気になって私にこう質問しました。「先生は夏休みどこか行くの?旅行とか好き?」私は「旅行は好きだよ。でも最近忙しいから、あまり遠くは行かないなぁ。で君はどうなの?」「僕は行った事ないよ」

「そうだよね。もし、どこでも旅行していいよ、って言われたら どこに行きたいの?」

するとその子は「僕はイスラム国に行きたい」驚いた私は「どうして?」と聞くと、「だって死ねるでしょ、そして生き返るんだってね。だから行ってみたいんだ!」

小学3年生の男の子が、そんな事を考えているというより、そのように考えてしまうようにテレビのニュースやインターネットの影響があるとしたら、とても恐ろしくなりました。

私はその子に言いました。「先生はね、君の事を愛しているし、君を愛しているイエス・キリストという神様がいる事を知ってほしいんだ。だから行くならイスラム国ではなくてキリスト教の国に行ってね。イスラム国が言っている事はウソだよ。イエス様を信じられるように先生お祈りしてるからね。そして死にたいとか、死んで生き返るために人を殺しても良いなんて、絶対にウソだからね」と言って、また来週ねと別れました。子供の世界にこれほどまでイスラム国の影響があるとは恐ろしい事ですし、日本ではイエス・キリストの救いについて聞く機会がどれほど少ないのか、という事を更に実感しました。

 イエス様を信じている私達には使命があります。それはイエス様の愛をもって自分をそして隣人を愛する事です。その使命を生きるために、神の祝福を受け取ろうではありませんか!

 

今日の聖書の話は「祝福を奪い取る」というテーマですが、その背景には人間のドラマがあります。それでも神はその御心を成すお方だという事をご一緒に学んでいきたいと思います。

 

まずイサクの願いを見てみましょう。1節を見ると「イサクは年をとり視力が衰えて良く見えなくなったとき」とあります。イサクはこの時137歳であったといわれています。目が見えなくなってきて自分の人生も残りわずかだと思い、弱気になったのでしょう。そこで長男のエサウに「自分はいつ死ぬかわからないから、大好きな獲物を捕って料理を作って持ってきてくれないか。祝福したいから」と願います。このイサクの願いは、自分の気持ちを優先するものであり主の御心に反するものでした。

なぜ、主の御心に反するものだったのでしょうか? リベカが辛い妊娠中に主が「主の祝福は弟のヤコブにと」と語られたのを夫婦の中でも理解していたはずです。しかし25章を読んでわかるように、イサクは長男エサウを愛していましたから、自分の思いをエサウに託したくなったのでしょう。

次にリベカの願いを見てみましょう。イサクとエサウのやりとりをそばで聞いていたリベカはエサウが野に出て獲物をしとめに出かけたとき、ヤコブに8節から10節でこう言いました。リビングバイブルから見てみると「さあ、お母さんの言う通りにするんですよ。 群れの中から子やぎを二頭引いておいで。お父さんの好きな料理を作るから、それをお父さんのところへ持ってお行き。食べ終わったら、お父さんは亡くなる前に、エサウではなく、おまえを祝福してくださるから」リベカの策略です。リベカは次男のヤコブを愛していましたし、「主から弟が祝福される」と聞いていましたが、ここで問題なのは夫であるイサクを欺く策略をした事と、主の約束が必ず成就する事を信じ切れていなかった、という不信仰の罪があります。創世記25章23節での主なる神が語られた約束の言葉「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」を確かに聞いたのです。しかし、イサクがエサウを祝福しようとしている状況を聞いて、リベカの心は不安と動揺でいっぱいになって信じ切れず、夫を裏切ってまで主の祝福を得ようと、愛する息子ヤコブをも そそのかしてしまう程に大きな罪を犯したのです。リベカはその代償として「呪いを受ける覚悟」が出来ていましたし、それ程にヤコブを溺愛していました。

これは家庭の、夫婦の、子供たちの危機です。どんな状況になっても主なる神の約束を信じ切る事を、神様は喜ばれます。しかし、弱さを抱える私たちは同じような不信仰の失敗をしてしまう事があるかもしれません。イサクの父アブラハムも、母サラも同じような失敗を何度もしてきました。それでも主なる神はご介入してくださり、主の御心だけが成し遂げられるのです。神を信頼し、神の時を待ち、神の最善の方法でご計画が成し遂げられるのだという信仰を、私達は持っているでしょうか?     

その信仰を成長させるために、しばしば主なる神は私達を訓練してくださいます。新約聖書のヤコブの手紙、これはイエス様の弟にあたり1世紀半ばにエルサレムの教会の指導者であったヤコブがクリスチャンとして生きるために指南書として書かれた手紙です。そのヤコブの手紙1章3節、4節「信仰がためされると忍耐が生じるという事を、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」

リベカは主の約束を信じ切れずに、自分で策略を練り、間違った方法で実現させようとしたのです。

どんなに素晴らしい目標であっても、その手段が神様に喜ばれているかどうかを吟味しなくてはなりません。自分の目標達成なら手段を選ばずという事は罪であり、その結果が魂の死です。ヤコブの手紙1章14節15節「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」また、箴言28章25節「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし主に拠り頼む人は豊かになる」とあります。

リベカのとった行動から私達が学ぶ事は「これは主が喜んでくださる事だろうか」「主の御心にかなっている事だろうか」と考え祈る事が大切なのです。

 

母リベカの指示に従ったヤコブが父イサクに声をかけると、イサクは視力が衰えても、それが長男なのか次男なのか聴力はごまかせなかったので、18節から22節のようなやり取りが続きました。しかし、ヤコブのなめらかな肌の手に乗せた動物の毛とエサウの上着の香りで騙されてしまった父イサクは次男のヤコブを祝福しました。27節から29節に書かれている祝福の内容は「農業への祝福」「国々の上に立つ、兄弟達の主となる」「他の人々への神の祝福の基となる」というアブラハムに主なる神が与えた契約を受け継ぐように祝福したのです。

父を騙して祝福を奪い取ったヤコブ。すれ違いのようにそこにエサウが戻ってきて驚きに驚いたのは父イサクでしょう。33節「イサクは激しく身震いし」とあるほどに、もう取返しのつかない事態になっている状況以上に、主の約束を思い出して「主の御心が成った瞬間」に居合わせたと気づいたので、激しく身震いしたのでしょう。

 

祝福を失った人エサウ、34節から38節でエサウと父イサクのやり取りを見ると。エサウは泣いて訴えましたが、「父の心が変わる見込みのないのを知った」のです。しかしその涙は神へ悔い改めの涙ではなかったのです。その証拠にエサウは「お父さん、祝福は一つしかないのですか。私を、私をも祝福してください。」とただ泣くだけでした。

  長子の権利を一杯のレンズ豆の煮物と交換してしまう程に、永遠的な価値あるものを見下げ、目に見える一時的なものを求めてしまう自分の弱さにエサウは気づいたのかどうか、もともと彼の弱さがそこにあったわけですが、今必要な事ばかりを求め、神の祝福につながる事を軽んじていた事が、ただ結果として現わされたわけです。

 

父イサクがエサウにいった言葉は、ヤコブへの祝福とは対照的でした。

39節から40節「ああ、地の産み出す豊かなものから遠く離れた所に、この後お前はそこに住む。天の露からも遠く隔てられてお前は剣に頼って生きていく。しかしお前は弟に仕える。いつの日にかお前は反抗を企て、自分の首から軛を振り落とす」エサウの子孫が約束の地から離れて生活するようになる事、エソウの子孫は後にヘブル語でエドム人と呼ばれるようになります。「剣に頼って生きる」とは旅人を襲撃し、戦い奪うもので生きるようになる事、「弟に仕えるという預言」は約900年後に成就する出来事で「第1サムエル記14章47節でイエラエルの王となったサウルに敗北」し、「第2サムエル記8章14節ではエドム人の地全体がダビデ王によって征服された」という事で成就します。「いつの日にかお前は反抗を企て、自分の首から軛を振り落とす」については、預言から約1000年後に成就していきます。例えば第二歴代誌21章「ヨラムの時代に、エドムがそむいて、ユダの支配から脱し、自分たちの上に王を立てた。ヨラムは、彼のつかさたちとともに、すべての戦車を率いて渡って行き、夜襲を試み、彼を包囲していたエドムと戦車隊長たちを打った。しかしなお、エドムはそむいて、ユダの支配から脱した。今日もそうである。リブナもまた、その時にそむいて、その支配から脱しようとした。これは彼がその父祖の神、主を捨て去ったからである」とエドム人は何度か背いていきます。エドムはギリシャ語「イドマヤ」と呼ばれるようになり、そしてやがてはローマのユリウス・カイザルの支持を取りつけたイドマヤ人アンティパテル2世は行政長官として紀元前47年以降にユダヤ、サマリヤ、ガリラヤを統治します。その後、彼の息子はユダヤの王に任じられて、ヘロデ大王と呼ばれるようになりました。そしてヘロデ王は幼子のイエス様の殺害を図った王です。ヘロデ王によって多くの幼い男の子殺されたのも事実です。

こうして祝福を受け継ぐ人、そうでない人の明暗が分かれますね。

 

祝福を失ったエサウは私達にとって反面教師です。ヨハネの福音書12章25節でイエス様はこうおっしゃいました。「この地上のいのちを愛するなら、結局はそれを失うだけです。しかし、地上のいのちに執着しなければ、代わりに永遠の栄光を受けるのです」

私達はどうでしょうか。永遠につながる事、永遠に価値ある事を大切にしているでしょうか。それとも、一時的な満足、一時的な刺激や快楽、一時的な人からの称賛を求める事で、霊的に価値あるものと交換する危険を冒すような事はないでしょうか。現在の満足や自分の思いを優先してしまい、未来のものを犠牲にしているような事はないでしょうか。

イエス様は、マタイの福音書16章26節でこうおっしゃいまいした。「人は、たとい全世界を手に入れても、真のいのちをじたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」言い換えれば「自分の欲望をすべて満たしても、大切なもの、いのちを失ったら何の得になるでしょう」という問いかけです。自分の中で何を損と考え、何を得と考えるでしょうか?

 

私達イエス様を信じる者は祝福を、永遠のいのちを受け継ぐものです、ね! それは神の一方的な選びです。ヨハネの福音書15章16節でイエス様はこうおっしゃいました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたが わたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」

イエス様が私達を友として選び、イエス様の目的を達成するために任命したのだと、おっしゃったのです。選ばれたのは人間的な基準ではなく、能力的に優れているのではないという事です。

私達にいつも友として親しく語り、教え、導いてくださっているのです。私達がイエス様の手をがっちり握りしめているようで、実はイエス様ご自身が愛の手をもって、私達の手首をしっかりと掴んで下さっているのです。この恵みを知っているからこそ、私達は平安と喜びの内に信仰の道を歩む事が出来るのです。

私達、ひとりひとりは主イエス様に選ばれ、救いにあずかった聖徒です。St.セイントです。マルコの福音書1章17節でイエス様は湖で魚を捕っていたシモン(後にペテロ)と彼の兄弟アンデレに「私について来なさい」と声をかけられたように、今もひとりひとりに声をかけていらっしゃいます。その声に応答してイエス様に自分を明け渡し、その「みもと」に行っているでしょうか? イエス様にすべてを委ね、自分自身を明け渡すと、聖霊様の満たしにあずかり、祝福を受ける事が出来るのです。

今日の聖書箇所から、神の大いなる祝福を大胆に求め、神の栄光のために用いられるようにと願います。「この地上のいのちを愛するなら、結局はそれを失うだけです。しかし、地上のいのちに執着しなければ、代わりに永遠の栄光を受けるのです」

 

この御言葉を実践されているクリスチャンの方を紹介します。皆さんは「赤ちゃんポスト・こうのとりのゆりかご」を、聞いた事があると思います。2007年に熊本の慈恵病院でスタートしました。当時のニュースでは大きく取り上げられ、賛否両論がありましたし、5年前にはドラマにもなりましたが、その赤ちゃんポストをスタートした慈恵医大理事長 現在80歳の蓮田 太二先生を紹介します。蓮田先生がイエス様に出会ったのは、熊本大学医学部卒業後、1969年に聖母慈恵病院に勤務し、同じ病院で働くクリスチャンの看護師や助産師の働く姿を見て「なぜ、あのように謙虚にひとりひとりに向き合えるのか」と不思議に思ったそうです。ある日一人の妊婦さんが出産後、大量出血をし、子宮を摘出しなければならなくなり、家族から手術の了解をとるのに時間がかかりその間に妊婦は危機的な容態になっていました。「もう待てない」と思った蓮田先生はメスを握り「神様、助けてください」と祈り手術をし、妊婦は助かりました。その時「医学では計り知れないものに助けてもらった」という体験からイエス様を信じ、洗礼を受けました。その時62歳でした。「医師として命を救うのは当然」と言う蓮田先生も、かつては「医師を辞めようかと思うくらい悩んだ」事があったそうです。命を救った未熟児が未熟児網膜症で失明した事がわかり、眼底検査をせず、適切な治療をしなかったためと家族から訴えられ、相談した医師たちからは「未熟児を救うからだ」と批判されました。「命を捨てるか見捨てるか。医師としては、やはり命を大切にするしかないと思い至ったとき、すべてが吹っ切れた」とおっしゃいます。蓮田先生が2007年に産婦人科の院長をされたときにこの取り組みを始めた時には「捨て子を助長する」などの反発が殺到したそうですが、初年度に預けられた赤ちゃんは15人でしたが、2015年度は11人だったそうです。「神様から与えられた命、赤ちゃんを捨てるのではなく、ここに預けてくださった、ありがとう」と「こうのとりのゆりかご」に預けられた赤ちゃんが成長し幸せに暮らす姿を見る時が一番の幸せな時だとおっしゃいます。

 私達に与えられた使命はなんでしょうか? 神様の与えてくださった使命に生きるように、神様の祝福を大胆に求めていきましょう!

 

歴代誌第一4:10

「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて、私が苦しむ事のないようにしてくださいますように」