20170722マタイ513-16「光を輝かせ」

 

 今日のテーマは「地の塩、世の光となって、イエス様を証しする事で天におられる父なる神があがめられるという」ことですが、まさに地の塩、世の光として105年のこの地上での生涯を18日の朝終えて、天に帰っていかれた日野原重明先生。今年の3月から肺炎で体調を崩して自宅療養中の日野原先生「ことしの10月4日の106歳の誕生日をずっと楽しみにしていました。数か月前までは『自分は東京オリンピックまで生きるんだ』と言っていました」と話し、自宅療養の間、家族や知人らに『お世話になった。ありがとう』と感謝の言葉を述べていたそうです。日野原先生を通じて多くの方がイエス様に出会って、慰められ、励まされたのではないでしょうか?

 

 今日の箇所13節「あなたがたは地の塩です」あなたがたとは、私たちの事ですが、イエス様を信じている私達はこの世にあってどんな役割を果たすべきなのかを教えています。

なぜ、私たちを地の塩です、と引き合いにだしているでしょうか? 私たちの生活に、また生命維持のために塩はとっても大切ですね。昔も今も防腐剤として用いられています。つまり、信仰をもっている私達は、この世を腐敗から守る役割があります。

例えば旧約の時代、 預言者たちは神の裁きがイスラエルに下ることを預言しましたが、イスラエルが完全に滅びる事はありませんでした。なぜならば、どの時代にも真の信仰者がいたからです。

また塩は、 調味料としても用いられますね。塩気のない食事は味気ないですね。一つまみの塩で明かに新しい味が生まれるように、神との交わりを通じて、人との関係にも味わいが出ます。ですから私たちは地の塩として塩気を保ち、神様に用いられるように、霊的に満たされる必要があります。

 

 次に「世界の光」と呼んでくださっています。「世界の光」と書かれていますが、「世界」と訳された言葉はギリシア語で「コスモス」。意味は神から離れ、神を知らずに生きている人の住む世界、つまり私達がおかれているこの世において、イエス様を信じている私達は「光」の存在です、と言ってくださっているのです。だからその光を隠さないで、イエス様を証しするものとして歩みなさいと15節、16節で励ましてくださっているのです。私たちがイエス様のおっしゃる光の存在となれるのは、ヨハネの福音書8章12節で「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と宣言されたイエス様が私達の内におられるからです。

16節「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」

心の中で自分自身に向かって「私は地の塩、世の光」と言ってみてください。なんだかちょっと照れくさいかもしれませんが、「私は地の塩、世の光。イエス様が私の内におられるから、そういう存在になったのです」と。例えば、結婚すると女性は姓字が変わりますね。そうすると、その姓名になじむまでにはちょっと時間がかかりますが、今はなれて旧姓で呼ばれてもあまり振り向かないですね。それと似ています。イエス様は私達を「地の塩さん、世の光さん」と呼んでくださいっているのです。

 エペソ人への手紙5章8節でパウロはこう言いました。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」

ここでの「光の子ども」とは、「明るく、元気で、活き活きと」という意味ではありません。

「光の子ども」とは、やみの中から輝き出された光、すなわち、神の永遠のご計画とその目的、つまり神様の御心を知って歩む者「光の子」「神様の喜ばれる存在」として歩みなさいと教えています。

では、光を輝かせるためにはどうしたら良いでしょうか?一生懸命に頑張って自家発電をするのでしょうか? それは疲れますし、やがて自家発電する力も無くなってしましますね。永遠にずっと電力を供給してくださるイエス様に、聖霊様につながっていれば、内側から光が溢れてきます。イエス様を信じている私達は、そのままで光っているのです。

 

地の塩も世の光も、他の人のためにあります。先週学びました箇所の前半は「神との関係においての幸い・祝福」、後半は「人との関係における幸い・祝福」でした。その続きですから、イエス様は地の塩、世の光は、人との関係における塩として光としてのあり方を教えているのです。世界を見渡すとそこには分裂、闇、憎しみ、悲しみが多くあります。多くの人が傷ついています。世界は塩であり光である皆さんを待ち望んでいます。では、この世の理不尽さを目にしている毎日の中で、何ができるのでしょうか? それは祈る事です。

 

13世紀にイタリア半島で活動したフランシスコ会の創設者、アッシジのフランチェスコの「平和の祈り」をどこかで目にした事があると思います。「神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからからゆるされ、自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから」

 

皆さんはウルトラマンをご存知の世代だと思いますが、ウルトラマンの監督、円谷さんや脚本の市川さんは共にクリスチャンです。ウルトラマンは、光の国から人間を救うために地球へやってきて、普段は人間の姿をして暮らしています。これは、救い主である神の子イエスが、人間を救うために地上へやってきて、人間の姿をして暮らしていた(受肉)とよく似ていますね。

脚本家の市川さんの特に思い入れがあるのがウルルトラマンエース13話、14話でウルトラ兄弟たちが十字架につけられるシーンを描いています。その舞台となるのは『ゴルゴダ星』であり、この回には『バラバ』という怪獣も出てくる。ウルトラの母マリーは、イエス様の母マリアから名前を付けたそうです。

円谷さんは妻・マサノさんの勧めもあり、1960年(昭和35年)58歳の4月に洗礼を受けています。円谷さんが信仰をもつきっかけになったのは、本来、飛行機が大好きで、15歳の時に羽田にあった日本飛行学校に入学し、飛行士を目指していましたが、飛行機事故で教官が死亡し、学校は閉鎖となってしまいました。その後、映画会社に入り、カメラマンとなり、様々な技法を使った撮影技術を生み出しましたが、当時の映画界は、俳優の顔を見せることが中心で、特撮技術は隅に追いやられ予算も人材も制限される中、太平洋戦争が始まると軍部から真珠湾攻撃の様子を模型で映画にして、国民の戦意をあおる作品を作らされました。その映画、「ハワイ・マレー沖海戦」は当時、ほぼ全国民が見たといいます。

しかし敗戦後、その出来の良さが仇となり、円谷さんはGHQにより公職追放を受けました。それによって、今まで受けた人々からの称賛が、一夜にして戦争協力者への罵倒に変わってしまったことで、世の人々への不信感を持ち、それが「永遠に不変なるもの」を求めて円谷さんはイエス様を信じ、洗礼を受ける決意をされました。平和を願って、1954年(昭和29年)にゴジラの特撮監督を任命され、日本中で怪獣ブームとなると、自らプロダクションを設立し、子供達に夢を与え、人を育てるための番組、映画を作りたいという思いからウルトラマンを生み出したのです。

円谷さんが、子どもの頃から空を飛ぶことに憧れ、飛行機の精巧な模型を作る少年の夢を神様は知っておられ、その賜物を神と人への愛を表わし、平和を願う映画作りのために神は用いられたのです。そこに神様の愛と希望があるのです。

 

今日の箇所の15節16節リビングバイブル訳でお読みします。「あなたがたの光を隠してはいけません。すべての人のために輝かせなさい。だれにも見えるように、あなたがたの良い行いを輝かせなさい。そうすれば、人々がそれを見て、天におられるあなたがたの父を、ほめたたえるようになるのです」

 

 

 おひとり、おひとりを通して、主イエス様の光が輝きますように、お祈りします。