2017年1月21日 創世記43:16-34「神があなたを恵まれるように」

 

あるユダヤのジョークです。

一般的にユダヤ人の家庭は子供がたくさんいる大家族です。子供が7人もいるユダヤ人の大家族がヨーロッパからアメリカに引っ越してきました。しかし、子供の多い大家族なので、アパート探しも一苦労。どの大家さんにも断られ続けました。アパートが見つからないまま数日が経ち、途方に暮れた一家のご主人が奥さんにこう相談しました。

「おまえは下の子供達4人を連れて近くの墓地へ散歩にでも行ってくれないかなぁ。私は上の3人の子供達を連れてアパートを探してくるから」

その日、ご主人はとても良いアパートを見つけてきてそのアパートの大家さんに借りたい旨を話すと、「お子さんは何人ですか」という大家さんの質問に、ご主人は目を伏せてこう答えました。「7人です・・・ですが、そのうち4人は今、母親と一緒に墓場におります・・・」

こう言って、ようやくアパートの契約が成立しました(笑)。

説得力があるというよりは、知恵があるという事でしょうか!

 

前回に引き続き今日の聖書箇所から、息子ユダの覚悟を決めた説得で、もたもたと躊躇している父イスラエルが信仰をもって息子達をエジプトへと向かわせてから、神様がどれほど良きお方で、ひとりひとりを恵もうとされるのか、私達もその恵みにあずかりたいと思います。

 

ひどい飢饉の中、躊躇している父イスラエルを息子ユダが説得し、父イスラエルの最愛の末息子ベニヤミンを連れてエジプトに下るところでした。

15節「この人たちは贈り物を携え、それに二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴ってエジプトへ下り、ヨセフの前に立った」

16節でヨセフが、ベニヤミンを連れている兄達を確認したので、家に招きます。

ここの箇所は、イエス様を信じているという理由だけで私達は神の家に招かれる事と同じです。神の家に招かれた時、どんな反応しますか?わくわくしますか?

それとも、ドキドキしますか? 神様はどんなお方だと受け取っているでしょうか? 

「神は愛です」という言葉を知っていますが、神の愛をどのように理解しているでしょうか?「自分をあるがままで受け入れている度合い」と、「ほかの人をあるがままで受けている度合い」は比例します。自分の弱さや欠点を受け入れていない人は、他の人の弱さや欠点を受け入れる事は難しいのです。反対に今のあるがままの自分を認めて受け入れて感謝できる人は、ほかの人の弱さや欠点をも受け入れて赦すことができます。

神の家に招かれた時に、どんな自分を想像できますか? ありのままの自分を知っておられる神の愛にわくわくしますか? それとも自信がなくてドキドキしますか? みなさんの神様に対し持っている神感・イメージはどんなお方でしょうか? いつも弱さや欠点を見てダメ出しをするお方でしょうか?それとも、弱さや欠点でさえも全てを受け止め愛してくださるお方でしょうか? 持っている神様へのイメージが健全でないと、どうしても目に見える自分や他人の弱さや欠点が気になってしまうのではないでしょうか?

招きを受けた兄達はどんな反応をしたのでしょうか? 17節から21節で見てみましょう。兄達の心の中は罪悪感でいっぱいでしたから、その招きを善意として素直に受け入れる事は出来ませんでした。ですから19節で招かれた家に入る前に管理者に話しかけていろいろと弁明したのです。それに対して23節では管理者が「安心しなさい。神が良くしてくださったのだから」と言いました。更に安心させるために人質であったシメオンが連れて来られたのです。そのうえ24節25節を見るとその管理者が兄達をヨセフの家に入れて、足を洗うという最高のもてなしをし、さらにはロバにエサを与えたのです。そしてエジプトの首相という立場であるヨセフが共に食事をすると聞いて、兄達は贈り物を用意して地にひれ伏し、食事の席につく心の準備をしました。

 私達は主の前に立つときの用意は出来ているでしょうか? 兄達のように恐れるのではなく、イエス様を信じている者は神の食卓に招かれている時、喜んでその招きに応じるべきです。なぜならば、イエス様が私達の身代わりに十字架に掛かってくださったからです。「キリストは、すべての人の贖いの代価としてご自身をお与えになりました」第1テモテの手紙2章6節にパウロが書いている通りです。

 神が招いてくださっているのにも関わらず、それを拒んでいる方がたくさんいらっしゃることはとても悲しい事、残念な事だと思います。

 ルカの福音書14章では、神の国の食卓についてイエス様が教えていらっしゃる箇所ですが、特に16節から24節は、神の盛大なる祝宴に招待されながらも、いろいろな理由、それも自分の事にしか関心がないという態度で断り、招きに応じなかった者に対する、神様の憤りと悲しみが記されています。ルカの福音書14章16節でイエス様はたとえ話をされました。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。宴会の時刻になったので

しもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。

この「ある人」とは「神」であり「しもべ」とは「イエス様」です。当時の習慣で招待状が2度送られるのですが、1度目の招待状を受け取ったのにも関わらず、「宴会が整いましたからどうぞ」という「しもべ」がする2度目の招待はそれぞれの理由をつけて断ったのです。これはイエス様を拒んだという事であり、宴会を催した神への侮辱でもあります。

 イエス様の十字架の贖いの愛、復活の勝利の力の良き知らせを聞いたなら、それを素直に喜んで受け取ってください。それが、神が望んでおられることなのです。ダビデ王は詩篇23篇5節6節で次のように歌っています。「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」ダビデはいつまでも主の家に住むことを誓っていますが、それは自分のために整えられている「食事」神との交わりが永遠であるからです。

イエス様の十字架上で流された尊い血潮によって私たちは罪赦され、神と和解し、神の子とされ、子としてのあらゆる特権を与えられています。神様との永遠の交わり、霊的な交わりが約束されています。

礼拝の最後の「祝祷・祝福の祈り」をします。それを聞くと、「あ、やっと礼拝の時間が終わる」と思われる方もいらっしゃると思いますが、この祝福の祈りを、丁寧に心を合わせて祈ってみてください「イエス様の恵み、天の父なる神の愛、聖霊様との親しい交わりがありますように」聖霊さまとの親しい交わりの中に、イエス様の恵み、神の愛があるのです。

 

今日の聖書箇所に戻り、27節以降の出来事を見ていきたいと思います。

一緒の食卓についたヨセフはまず父の安否を気遣い、そして同じ母の子である弟のベニヤミンをみて胸の熱くなる思いを込み上げるのを抑えながら、「神があなたを恵まれるように」と特別に声をかけました。それと同じようにイエス様は私達をいつも恵みで満たそうとしてくださっているのです。

 ヨセフはまだ自分の事を兄弟達に明かす時ではないと、奥の部屋で泣き、顔を洗って自分を制し出てきて食事の用意をさせました。そしてエジプト人とヘブル人は一緒に交えて食事が出来なかったので、それぞれに食事が出されましたが、ヨセフの指図で兄達は年齢順に座らせられてヨセフの食卓から食事が分けられた事にとても驚きと畏敬の念が深まりました。何よりベニヤミンの食事が誰よりも5倍に分けられたのは、ベニヤミンへの特別な愛と共に兄達を試したのです。かつて兄達はヨセフに嫉妬したゆえに売り飛ばしたように、ベニヤミンに対しても嫉妬するかどうかを試したのです。もし兄達がベニヤミンの食事が5倍ある事で嫉妬するなら、悔い改めていない、という事になります。よく「食い物の恨みは恐ろしい」と言いますが、兄達は嫉妬する事なく食事を楽しむことが出来たのです。

 私達には、他の人が多くの祝福を受けているのを見て「うらやましい」と感じたことがないでしょうか? 「人をうらやむ心」がいかに神からの祝福を遠ざけているのか、それに打ち勝つための秘訣をパウロはローマ人への手紙12章2節でこう言っています「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」日々聖書の言葉に触れ、祈り、神の御心を知り、聖霊様に満たされ続ける事なのです。

聖霊様に満たされ続ける時に、神が望んでおられる事、愛し合う事、赦し合う事が出来るのです。ひとりひとりがそうであれば、キリストを頭とする教会の一致が、リバイバルが起こるのです。「御霊に満たされなさい。 詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」とパウロがエペソ人への手紙5章18節19節で書いてある通りです。賛美の中に主が住まわれ、喜び溢れる所に主は新しい人を加えてくださるのです。

 

 讃美歌の中に「キリストには代えられません」という賛美歌があります。この歌詞は私達に大切な事を教えてくれる讃美歌のひとつです。作詞者はレア・ミラーという女性です。彼女の母親は熱心なクリスチャンで、アルコール依存症の父のために母と心を一つにして祈ってきました。やがてこのアルコール依存症の父親は救われて牧師になりました。

彼女の父親は、いつも「金や銀、土地や家よりも、私はイエス様を選びます」と言っていました。その事を彼女が作詞したのです。作詞された十数年後、ジョージ・ベヴァリ・ シェーさんという男性によって曲が付けられました。

ジョージ・ベヴァリ・シェーさんはメソジストの牧師の息子として生まれ、歌の才能に恵まれていました。「プロの音楽家か?それとも神のための音楽伝道者か?」の選択に迫られた時に、正しい判断が出来るようにと母親からこの詩を渡されたのです。彼は音楽伝道者となることを決意し、すぐにこの詩に曲をつけ、翌日曜日に教会でこの曲を賛美したと言われています。ジョージ・ベヴァリ・ シェーさんは、グラミー賞候補に10回も選ばれ、ビリー・グラハムという有名な説教者のミニストリーで50年以上奉仕をし、数多くの讃美歌やゴスペルを作曲し、歌ってきた人物で2013年、103歳で天に召されました。「輝く日を仰ぐとき」の曲も彼の作曲です。

 

神の恵みに預かり、救われた者が、この世の中での戦いに勝利するためにも、「なんのためにこれをするのか?自分のため?人のため?それとも神のため?」という選択肢で神の喜ばれる選択するためにも、多くの御言葉や賛美で信仰の力を養いましょう。

 

作詞レア・ミラー・作曲ジョージ・ベヴァリ・ シェー 「キリストにはかえられません」

 

キリストにはかえられません、世の宝もまた富も、このお方が私にかわって死んだゆえです。

世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け。キリストにかえられません、世のなにものも。

 

キリストにはかえられません、有名な人になる事も、人の褒める言葉も、この心を惹きません。

世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け。キリストにかえられません、世のなにものも。

 

キリストにはかえられません、いかに美しいものも、このお方で心の満たされている今は。 

世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け。キリストにかえられません、世のなにものも。