2016年9月3日創世記31:22-55 『ラバンとヤコブの歩み』

 

ある小学生の男の子が、お盆の時期に実家に帰省していました。そしておじいちゃんと久しぶりに話していました。男の子は聞きました「おじいちゃんは何の仕事をしていたの?」「おじいちゃんは先生をしてたんだよ。」「すごいね!でも、なんで先生になったの?」「おじいちゃんのお父さんがしていた仕事は漁師だったんだ。おじいちゃんも漁師になりたかったから、少なくとも泳げなきゃと思って、毎日プールで一生懸命泳いだんだけど、一向に泳ぎが上手くならなかったんだ。でも毎日お話しする事は大好きだったんだよ。だから先生になったんだ。」

夏休みが終わるころに、男の子はもう一度おじいちゃんの家に行きました。その時その男の子がおじいちゃんにこう言いました。「おじいちゃん、僕はパイロットになりたかったんだ。だから毎日一生懸命飛ぶ練習をしました。でも一向に飛べるようにはならなかったので諦めます・・・。

でも僕はおじいちゃんのように人とお話しするのも好きではないのです。僕の好きな事と言ったら作り話を書く事です。だから僕は政治家になります!」と言ったそうです (笑)

 

その子にとっては政治家が言っている事が作り話に聞こえたのかもしれませんね~。実家に帰って若いながらも人生を考えさせられましたね~。

今年の夏はいかがだったでしょうか?ご実家に帰られた方、ご自分のお家がご実家の方もいらっしゃると思います。どこにいても、自分の故郷に帰るのはいいですね。

 

今日の箇所は、ヤコブが自分の故郷、カナンの地に帰る前の箇所です。

31章においてヤコブはそのときの主人、ラバンの元を離れていきます。このときのヤコブの状況から言うと、ラバンから離れたいと思う理由は幾つかありました。

元はと言えば自分が育った土地ではなかった事。兄とのいざこざがあり逃れてきた土地だったのです。またその地でラバンに仕えるものになり、ラバンの2人の娘を妻としていただき、子供をもうけました。でもその地においてヤコブの家族が祝福されるのを見たラバンの息子たちは面白くなかったのです。今日の31章の1節にあるように、「ヤコブはわれわれの父(ラバン)のものをみなとった」と言っている通りです。でもヤコブたちはそこにとどまっていたのです。そしてラバンの元で仕えていました。でもヤコブを導く神様ご自身がヤコブに「Go」サインを出したのです。創世記31章3節「あなたが生まれた先祖の国に帰りなさい」

神様からのGOサインを聞いた時、ヤコブはその事を家族には告げました。でも叔父であるラバンには言わなかったのです。そしてヤコブは妻子、使用人、家畜を引き連れてラバンの元を離れていきます。でもラバンはすぐにヤコブたちが去って行った事に気づき、追っていきます。

それが今日の箇所です。

今日は長い箇所ですが、私たちが学ぶべきポイントを大きく二つに分けました。まず一つ目は今日の箇所において「私たちは人生において何を信頼していくべきなのか」という事を教えてくれます。

 

.生きて働かれる神と共に歩む

ラバンはある一つの偶像を拝んでいたのです。それは19節にある「テラフィム」という偶像です。「テラフィム」は、偶像の一種で、自分の行動に関してお伺いをたてる目的で使用されたものだったのです(ゼカリヤ10:2)。当時多くの家庭では、家長がこの偶像を持っていました。

またテラフィムは相続権にも重要な意味を持っていたのです。それを持っている者が財産を相続する権利が与えられる。ラバンはそれを拝み信仰していたのです。ラバンにとっては命の次に大切なものと言っていいかもしれませんね。よく火事のときに皆さんは何を持っていくでしょうか?

ラバンならまずこのテラフィムを持って逃げたでしょうね~(笑)

しかし何とヤコブがラバンの元を去っていくときにラバンの娘ラケルが父の元から、このテラフィムを盗み出します!その後ラバンがヤコブの元に追いついたときに、まずラバンはこのテラフィムをなぜ盗んだのか?と聞くわけです。でも盗んだのはラバンの下の娘ラケルです。ヤコブはラケルがそれを盗んだのを知らなかったのです。ですからヤコブは32節「もしその神々を見つけたならば、生かしておきません。あなたのものが一つでもあったら持って行ってください。」と言ったのです。

33節、34節でラバンの家宅捜索が始まったのです。よっぽど気が気ではなかったのです。ヤコブや他のものが寝泊まりしていた天幕を見ましたがテラフィムを見つける事はできませんでした。なぜなら、それはラケルの座っている下にあったからです。そしてラケルは35節で「私はあなたの前に立ち上がる事ができません。」と言ったのです。最終的にラバンはテラフィムを見つける事ができませんでした。

ではヤコブの妻のラケルはなぜこれを盗んだのでしょうか?父に対する意地悪でしょうか?それともラケルもその偶像を信じていたのでしょうか?

ラケルはそれを信じていたのではなく、テラフィムを持つものが財産の分け前を受けるという風習に従い、ヤコブにラバンの財産の分け前を与えるために盗んだのではないかと言われています。

しかし何よりもここで注目したいのは、ラバンがどれだけこのテラフィムを大切にしていたかという事です。ラバンは自分が持っているテラフィム・・・偶像が盗まれると気が気ではなかったのです。偶像に全てを委ねていたのです。

偶像と聞くと「何か形のある像」のように思いますが、私たちが生きる現代において偶像になり得るものは沢山存在するのです。偶像は英語でIdol(アイドル)と言います。ヘブル語の原語ではイメージという言葉が使われています。偶像はこのように言えます。「私たちの生活において神を超えて信頼する何か(もの)」それは全て偶像になり得るのです。

 

あるアメリカ人の宣教師がインド宣教に行った後にその報告をしたのです。その報告の中でこう言いました。「私がインドに行った時にたくさんの偶像を見ました。それはこのようなものです。」と言って像を見せたのです。その時に会衆は「こんなものに頼っているの 笑」という人もいたのです。そしてその後に宣教師はこう言いました。「私はアメリカに帰ってきて驚きました。アメリカにもたくさんの偶像がありました。あなたたちがインドの偶像を見て今笑いましたね。そのそれと同じぐらいアメリカにある偶像を信じている人は愚かですよ。」そしてドルのお札を皆に見せたのでした。確かにお金に全ての信頼を置いている人は、お金が偶像になりえるのです。ある人にとっては車かもしれません。趣味かもしれません。偶像はイメージなので、形がなくてもいいのです。例えば自分の頑固さ、長年の考え、それさえも神様を超えてしまえば偶像になり得るのですよ!?

 

神様は後にイスラエルの民に律法を与えます。律法は神様の御心を記しました。その中に十戒という、10の戒めがあります。その初めの2つはこういっています。①あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない。②偶像を作ってはならない。つまり偶像を拝む事は神のみ前に罪だと神様ご自身が言っておられるのです。ラバンは他の神を信じる者だったのです。そのラバンの姿をみてください。最後には全てのものを失ってしまったように見えますね。力のない、不安定な、不完全な「イメージ」に信頼する時に、そこには何も残らないという事です。

ではヤコブは何に信頼していたのか?それはこの天地万物を創造した、生きて働かれる神ご自身です。ヤコブの信じている神はいつも生きて働かれていたのです。

今日の箇所でも、神様はヤコブを守られます。ヤコブを追いかけるラバンに対して、神様ご自身が現れてこう語ります。24節「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」そう言ってラバンに言いつけたのです。神様はあらかじめラバンに現れヤコブの事を守られたのです。

また何よりも神を信頼するヤコブの人生を祝福しました。考えてみてください。ヤコブはどのようにしてラバンの元に来たか覚えてらっしゃいますか?お兄さんの長子の権利をいただいて、逃げるようにしてラバンの元に来たのです。まさに着の身着のままでラバンの元に来たのです。でもどうでしょう。ヤコブは20年の間その地でラバンに仕えました。でもヤコブを導き祝福する神は確かに働きヤコブを祝福していったのです。この時のヤコブは始めと比べるとどうでしょう?雲泥の差です。神は周りの人もが羨むような祝福をヤコブに与えたのです。この時、妻が妻の奴隷も含めて4人、子供も12人、また多くの家畜を引き連れてラバンの元から出て行ったのです。

私たちは私たちの人生において何に信頼して歩むべきでしょうか?それはヤコブのように目には見えないけれども生きて働かれる天地創造の神ご自身に信頼を置くという事です。なぜなら神は今でも確かに働かれ、私たちを最善に導くお方だからです。

 

今たくさんの人がイエスキリストを信じるという出来事が世界中で起きています。その一つにイランという国があります。イスラムの教えが濃いこの場所でも確かに神様は働かれているのです。

イランの南、アバダンというところにアフシンは生まれました。家族はイスラム教のシーア派に属するものでした。彼のおじいちゃんはイスラム教の指導者でした。19人の子供と84人の孫がいる偉大な方でした。

彼は年を追うごとに熱心にイスラム教を信じ、学ぶ青年でした。彼はこう言っています。「イスラム教の指導者のおじいちゃんは私にたくさんの事を教えてくれました。」

彼はいつも「自分がイスラムの神様にもっと近づくためにはどうすればいいのか」という事を考え実行していたのです。彼は日に5回祈り、寝る前にも祈りました。また10日に一回コーランを通読していた。その後、彼はヒズボラというシーア派の政治組織、武装組織に3年間入り、そのキャンプの中でもイスラム教を教えていたのです。彼はアラーのためだったら死をも覚悟していたのです。そのような熱心なイスラム教徒にイラン政府は以前特別な政府の証印付きのコーランを配布しました。それさえも彼は持っていたのです。罪人を絞首刑にする場にも何回も同席していたのです。彼のおじいちゃんは彼にこう言いました。「外国でクリスチャンになった可哀想な人達にイスラム教を教えるように」その言葉をいつも聞き、外国に行ってイスラム教を教えるという思いを彼に植え付けたのです。彼は後にマレーシアに行きます。そこでイスラム教を教えていましたが、そこでパスポートの偽造で捕まりました。でも彼は自分が捕まった牢獄でコーラン教えていました。

その後、彼は思いもしないような事を経験するのです。彼はこう言います。「ある夜コーランを読みながら瞑想していました。すると今までに感じた事のないような偉大な力を感じました。彼はイスラム教が教える全ての事をしました「アラーの御名によって出て行け!」「サタンよ出て行け!」と言ったのです。でも何も効果がありません。するとその霊が私を捕まえ壁に押しつけたのです。本当にその時死ぬかもしれないと思ったのです。その時私は天に向かって、「神様助けてください!」と言いました。すると声が聞こえこう言ったのです。「イエスの御名によって祈りなさい」その時私は必死でした。そしてただこう祈ったのです。「イエス様、助けてください!」するとその場に倒れこんでしまいました。その後考えてみても、なぜこう言ったのかわからなかったのです。ただ必死だったのです。それから私は信仰的に混乱したのです。それは「なぜイエスがイスラム教徒の元に来るのか?あの時の私を救ったのか」という事です。彼は完全にアラーの神とコーランを信じていたので、あの夜の出来事はただ彼に混乱を与えただけでした。だから彼は忘れようとしていました。でも気になっていた彼はそれから2週間考え続け断食の祈りをし、神に答えをもらおうと思っていたのです。あの時の夜なぜ「イエスキリストの御名によって祈りなさい」と言ったのか。

イエスキリストがなぜ自分の元に来たのか?イエスはイスラム教と関係があるのか?コーランには「どこから登っても頂上は一緒」という教えがあったので、彼はこれが道なのかな?とも思っていたのです。そして彼は「私はどの道に行けば良いのでしょう?」と祈ったのです。2週間断食の祈りをした後、彼は何も答えが与えられませんでした。彼は怒りさえ感じました。「私は全てをアラーの神に捧げたのに、私を混乱させるのか!?そして祈っても何も教えてくれないのか」と。

そして彼は心の底でこう思ったのです。「何も教えてくれないならば自分のやり方で生きていく」そう思った時にまた力強い何かが来て、その臨在がその場所を満たしたのです。イスラムの教えで最大で絶対に許されない罪は、疑う事です。特にアラーの神、イスラムの教え、そして預言者を疑う事なのです。彼はその時にこう思ったのです。「私は神を疑ってしまった。だからアラーの神が来たんだ。私は殺される」しかしイスラムの教えでは、アラーは人の前には現れないと言っています。でも確かに偉大な力を感じる。やっぱり殺される!と泣き叫びました。そして彼はこう言ったのです「神様、赦してください!神様、赦してください!」そう叫んでいたのです。すると温かいものが肩を包みこう言ったのです。「私は、あなたを赦そう」その声を聞いた瞬間、彼はこう言ったのです。「今赦すとおっしゃいましたね!?」なぜかというとイスラムの教えでは神は憐れみ深く、恵み深いお方です。でも赦しに関しては最後の審判まで誰もわからないのです。あの偉大な預言者モハメドも天国にいるとは経典のどこにも書いていないのです。モハメドさえも最後の日まで他の人と一緒に待っていなければ自分がどこに行くのかもわからないのです。でも彼は「私はあなたを赦そう」その声を聞いた瞬間、 不思議な感覚をおぼえました。体で罪が赦された事を感じたのです。だから彼はこう思ったのです。「罪を赦すと言い、実際に赦されたと感じさせる事ができる、このお方は一体誰なんだろう」そしてわたしはこういったんです「あなたは誰ですか」するとその声はこう言いました。「わたしは道であり真理であり命です。」あなたの名前は?そう聞くと「Jesus Christ(イエスキリスト)」その言葉を聞いた時に、わたしはただ泣き崩れました。私はイエスキリストを喜ばせる事は何もしていなかったのです。むしろ反対の事をしていた。違うものを信じていた。でもイエスキリストは言いました。「わたしはあなたを赦す。」その時に私はイエスキリストを信じたのです。その時イエスキリストは私にこう言ったのです。「わたしのように人を愛しなさい。その後2時間以上泣いていました。その次の日聖書が読みたいと祈っていると、なんと仲間が聖書を持っていたのです。その聖書をもらって四六時中読んでいました。それから18年経ちましたが、その時の感覚を忘れる事はできません。」彼はこう言うのです。「私が証しをする時に、ただクリスチャンになってほしいとは思っていない。ただ、わたしが話したいのは、イエスキリストは神であり、全能であり生きた神であるという事です。」彼は、今はイエスキリストを大胆に証し、伝える者になったのです。

 

偶像の神はただの置物です。力も赦しも与えません。でも私たちの神は赦しを与え、励まし、希望を与え、生きて働かれる神です。その神と歩む時に乏しい事は何一つないのです。

ヘブル人への手紙13章8節「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じです」

 

.平和の君と共に歩む

今日のポイントの2つ目は今日の後半の部分です。ヤコブとラバンの和解の場面からです。

今日の34節、35節を見ると、ヤコブの天幕の中にテラフィムがないか探していますが見つける事ができません。それに対してヤコブがプチっと切れてしまうのです。36節から42節に書かれています。要約すると、ヤコブはラバンに対して怒りながらも、自分がどれだけ真摯にラバンに仕えてきたか、そして自分が今持っているものは全て自分が与えられたものであり、ラバンのものは一つもない事を主張したのです。その事が41節に書かれてある通りです。ラバンはこう言ったのです。43節“『娘たちは私の娘、子供たちは私の子供、群れは私の群れ、全てあなたが見るものは私のもの。この私の娘たちのために、または娘たちが産んだ子供たちのために、今日私は何ができよう”と言っているのです。つまりラバンはあなたの所有は全て私のものだ、と言ったのです。でもどう考えてもヤコブが正しかったのです。ヤコブのものは全てヤコブのものだったのです。でもラバンもこの時は自分から折れてこのような交渉に出たのです。44節「さあ、今私とあなたと契約を結び、それを私とあなたとの間の証拠としよう。」と言ったのです。そして双方は石の塚を作り52節この石の塚を双方とも超えてはいけないと言ったのです。そしてこれにより彼らは和解をしたのです。ラバンにとっては「もう自分の領域を侵さないでほしい」という心境かもしれません。でもヤコブはそれに従ったのです。

ラバンはいつも自分の利益を求める人でした。ヤコブはというと、ヤコブは嘘をつく場面もありました。でも彼の目は神様を見ていて、いつも目の前にあるものを受け止め、真摯に仕えました。ラバンとの関係はこの時結んだ契約によって和解され、守られたのです。一重にヤコブの態度が解決に導いたと言っても過言ではありません。

ヤコブはいつも平和を求める者だったのです。ヤコブが兄さんの長子の祝福をいただいた後も、争いを避けて、そこから逃げます。ラバンのところに来た時、娘のラケルをもらおうと7年仕えました。でも結果的に姉のレアをもらったのです。そしてもう7年間仕えたら妹のラケルを与えると言われた時も。ヤコブはただもう7年仕えたのです。ヤコブは人間関係において争いを求める人ではなく、平和の解決を求める人だったのです。

神と共に歩むものは平和を求め、和解を求める者なのです。決してどこかに行って、その人と誰かの関係を壊すような人ではないのです。イエスキリストは群衆を目の前にしてこのような言葉を彼らに伝えました。マタイ5章9節「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子供と呼ばれるからです」と言いました。つまり神と共に歩んでいるなら平和を作り出すものとなる、とイエス様がおっしゃられたのです。なぜならイエス様ご自身が平和の神だからです。イエス様に関する預言の箇所が旧約聖書にあります。

イザヤ書9章6節「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神永遠の父、平和の君」と呼ばれる」イエス様は「平和の君」なのです。つまりイエス様ご自身が平和をもたらすお方なのです。どのような平和を与えてくださったか?それは私たちと神様との間に平和を与えて下さったのです。

私たちは罪がある限り、神様に近づく事ができないのです。でもその関係を修復してくださったのがイエスキリストです。イエス様がその関係を修復し、私たちと神様との関係の間に平和の解決を与えてくださったのです。それがイエスキリストの十字架と復活です。イエスキリストの十字架と復活を信じる全ての人に神との永遠の平和を与えてくださるのです。

よく夫婦は似てくるといいます。私たちはいつもいる人に影響されます。言葉や態度、時々顔まで似てくるのです。(よく自分の愛犬に似てくる人もいますよね・・・笑)私たちとイエスさまとの関係もそうです。イエスキリストと共に歩むものはキリストのように変えられていくのです。キリストのように平和を運ぶものになるのです。よく言われるのは「ピースメーカー」という言葉ですね。「トラブルメーカー」ではなくて「ピースメーカー」になっていくのです。その人がいるといつも周りが笑顔になる。その人がいると争いがあったとしても平和に解決される。そんな人ですね。

 

エリック・リデル宣教師の言葉を紹介します。

第一次世界大戦後の事です。スコットランドの田舎町にエリックという少年がいました。そこでの小さな体育大会でエリックの俊足は人々の注目を集めました。のちに彼はスコットランドのラグビーナショナルチームのフルバックというポジションにつく事になります。今でもスコットランドやイギリスではラグビーが盛んですが、その当時エリックは世界中が注目する選手だったのです。

エリックは小さな頃から教会で育ちました。彼の両親は宣教師でした。彼はの俊足は有名でした。でもエリックは「自分の能力を人々の前で示し、自分にこの才能を与えてくれた神様を世界の人に知ってほしい」と思っていたのです。後に彼はイギリスの陸上のナショナルチームに呼ばれます。

彼のフルネームはエリック・リデルです。エリックは、1924年のパリ・オリンピックに出場する事になりました。でもその数か月前、自分が出場する100m走が日曜日に行われる事を知りました。敬虔なクリスチャンであったエリックは、自分の信仰に反して、日曜日の礼拝を欠席する事はできないと決意します。そして、日曜日ではない400m走に出場する事をチームに告げます。そして見事、金メダルを獲得、世界新記録を樹立しました。

その後、エリックは両親と同じ宣教師になる事を決意し、中国に渡ります。でも当時日本軍が中国大陸に進出し危ない状況だったのです。エリックは家族の事を気にかけ妻と娘をカナダに避難させ、一人中国に残りました。 やがて、日本軍が真珠湾を攻撃すると、第2次世界大戦が勃発。エリック宣教師たち「敵国人」は収容所に入れられます。そこで、日本兵によるひどい中国人への仕打ちを見せつけられていました。エリックは収容所内でただ怯えていたわけではありませんでした。エリックは収容所内で聖書を教えていたのです。ある日収容所で「山上の説教」から、「敵を愛しなさい」と教えていました。その時イギリス人宣教師の子で、当時、高校生だったスティーブン・メティカフという青年がいたのです。彼はエリックのメッセージを聞いて「こんな仕打ちをする日本兵を愛せるはずがない」と思いました。でもエリックはほほえみながら言いました。「そのあとに、イエス様は、『迫害する者のために祈りなさい』と言われたんだ。君たちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、君たちは自分中心の人間になる。・・・祈りは君たちの姿勢を変えるんだ」と。エリック自身、毎朝15分早く起きて日本と日本人のために祈っている、と言っていたのです。

 スティーブ青年はエリック宣教師の事をクリスチャンとして、またスポーツマンとして尊敬していたのです。だから思い切って、日本と日本兵のために祈り始めました。すると、以前は、日本兵個人に憎しみを向けていましたが、祈るようになってからは「これが戦争だ。今の彼らはいのちの価値がわからなくなっている。それに、人間が神に造られた大切な存在である事も知らないであんな事をしている」と心が変えられたのです。 そして、「神様は日本兵をも愛しておられる、また神さまを悲しませている事に気付いていない彼らを、憎む代わりに、日本兵たちが一日も早くその事を悟り、神さまのもとに立ち返ってくれますように」と祈り願うようになりました。そしてスティーブ少年は戦後、宣教師となり、日本に行く事を決意します。

ズティーブが日本に行くその船には、朝鮮戦争に向かうイギリス兵もたくさん乗っていました。ある日曜日、一人の将校がやってきて、兵士たちに話をしてやってほしいと言われた。十八歳から二十歳くらいの若い兵士たちに向かって、スティーブさんはこう語りかけた。

「あなた方は銃を持って平和をつくろうと韓国に向かっている。私は聖書を持って日本に向かっている。戦争は終わったが、日本にはまだ平和が訪れていないからだ。私は日本人に聖書を教えたいと思っている。イエス・キリストが平和の君であられるから」

それからこの信念をもって38年間、日本の東北や北海道、千葉で神さまの愛を宣教したのです。

 一方スティーブの心を変えたエリック宣教師は、妻とわが子と引き離されている深い悲しみを胸に秘めながら、被害者意識のかけらもなく、戦争が終わる数週間前に、脳腫瘍のため、43歳で収容所内で天に召されました。このエリックの人生は、彼が天に召されてから40年近くたってから映画「炎のランナー」になり、多くの人に感動を与え続けています。

イエスキリストと共に歩む者は平和と和解を運ぶ者に変えられていくのです。

私たちも今いる場所にいる理由は、平和を運ぶためなのです。「ピースメーカー」として、キリストの福音を運び、この世では体験できない、キリストにある平和を運んでいきましょう。