2016年9月17日 創世記32章「私を祝福してください」

 

先週は関根一夫先生をお招きし、ウクレレで賛美しながら「いてくれて、ありがとう」のメッセージを聞くことが出来た事、心から感謝します。

互いに「いてくれて、ありがとう」という気持ちを持てたら、心がほっとしますね。

 

今日は「私を祝福してください」というタイトルで創世記32章から学んでいきたいと思います。

ラバンのもとを夜逃げ同然に出てきたヤコブとその家族。目指すは故郷のカナン。

その帰る道すがら、今日の聖書箇所1節2節で、ヤコブの前に神の使い達が現れた事がわかります。主なる神はヤコブがとても恐れていた事を知っていたのでヤコブに御使い達を送り、「いつも共にいる」と励ましたのです。その場所を「マハナイム・2つの宿営」と名付けました。一つの宿営はヤコブの家族、奴隷、家畜のための宿営と、もう一つはみ使い達の宿営です。

主なる神がヤコブを励まし守るためにみ使い達を送ったのにも関わらず、ヤコブは非常に恐れていました。どんな事を恐れていたのかというと、兄のエサウを欺き、長子の権利と祝福を奪い取った事で、エサウに恨まれているので殺されるのではないかという事です。兄から逃れるために故郷を出てから20年。ずっとその恐怖を抱えていたのです。そして主が守ってくださるという事を信頼しきれずに、兄のエサウのご機嫌を伺おうと使いを送りました。4節5節を見るとヤコブが使いの者にこう伝えなさいといった内容が書かれていますが、その中にヤコブの中に謙遜さが身についている事が分かります。

「主人エサウ」「あなたのしもべヤコブ」と言っているのです。これは体裁を繕っての事ではなく、人を騙すような性格だったヤコブが20年の間に魂が砕かれたのです。

主の祝ラバンの元で長い間、忍耐をもって仕えた事を通じてヤコブ自身、変えられたのです。

その使いがヤコブの元に帰ってきて、兄エサウが400人を引き連れてヤコブを迎えに来ますとの報告を聞いて、ヤコブは更に恐れ心配し、どうしたら自分を守れるのかを考えたのです。主に祈りながらも、主に100%ゆだねきる事が出来ず、あれやこれやと対策を練っているヤコブに、私達の弱さが重なるところがあるかもしれません。

ヤコブのとった策は、マハナイムと呼んだ2つの陣営に一緒にいる人々や家畜、財産を分けておいて、たとえ1つが打たれても、もう一つは大丈夫だろうという考えでした。

そのような中でヤコブは主に助けを求めながら祈りました。第1に「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ」、とヤコブは祈りを捧げている対象を知っていました。

私達も父なる神とそのような関係をしっかりと築けているでしょうか? 

第2に「故郷に帰る動機を与えたのは神の命令と約束ですよね!と祈りの中で確認しています。

第3に「主が与えて下さった恵みを思い起こし、自分はその恵みに値しない者である事をみとめています」そして「故郷を離れた時には、着の身着のまま 杖一本だけて出てきましたが、今は神様の恵みと祝福で2つの宿営を持つほどになりました」と感謝を捧げています。私達もいつでも主の恵みを覚える必要があります。受ける価値のない者が与えられている恵みに感謝する謙虚さは、祝福を受けるために必要な要素です。

主が喜ばれるのは砕かれた魂なのです。詩篇34:18「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」

ヤコブもラバンに長い期間仕える事で心砕かれた者に変えられました。そして祈りの最後に神の約束を握りしめて「神様、どうかお助けください。兄はどんな手荒なことをするかわかりません。私たち一家を皆殺しにするかもしれないのです。考えただけでもぞっとします。お約束では、私を祝福し、子孫を海辺の砂のように多くしてくださる、ということでした。今、そのお約束を思い出してください!」と懇願しました。

そのように祈り求めながらも、策略を練っているのです。兄エサウに贈り物を選びそれを先に渡せばエサウは快く受け入れてくれるかもしれない、と思ったのです。

ヤコブのように主を信頼しますと祈りながらも、どこかで人への恐れを消すことが出来ず、

不安でいっぱいになってしまう事は私達にあるかもしれません。聖書には「恐れるな、たじろくな」と主の励ましの言葉がたくさんあります。

詩篇56篇11節は作者であるダビデが「私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう」と祈った言葉です。この時ダビデは極度の恐れに直面していました。サウルに命を狙われ、いつ殺されるかも分からない、という恐れです。その上、ペリシテ人の国で捕らわれたので、他の王に殺されるという恐れが迫っていました。ダビデは、恐れのある日に生きていたのです。ダビデは、助けてくださいと神に祈りました。そしてはっきりと意識して、神を信頼しました。心の心境を告白してもなお主への感謝を忘れてはいけないのです。イエス様もマタイの福音書10章28節でこうおっしゃいました「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。」エサウへの恐れに心が動揺しているヤコブ、贈り物を先に送り難を逃れようと思って、一晩を過ごそうという矢先、やはり不安で眠れないヤコブはその夜家族を起こしてギルアデとアモンの境にあるヤボク川を渡りました。その川を渡ると故郷カナンは目の前です。

家族を渡らせた後、ヤコブは一人戻ります。自分の中にある恐怖と不安との戦い、一人静かに神と交わりたかったのです。私達も、ひとり静まって神との時間をとる必要があります。

 

24節以降は今日の聖書箇所のとても大切な箇所です。

ヤコブは一人になり、ある人が夜中に格闘を挑んで来たのです。夜通しの格闘でした。

ヤコブの問題を神が解決しようと臨んでくださったのです。「格闘する」ということは、相手の力を失わせて倒して動けないようにする事ですね。神はヤコブをそのように打ち倒して、打ち負かして自分の下に服させようとしたのですが、ヤコブの力が、自我があまりに強くてその人は勝てなかったとあります。

   神から遣わされたその人がヤコブに勝てなかった、という事はどういうことでしょうか。

それは、神に頼ることなく、自分で一生懸命何とかしようとしている時は、神の支配下に置くことが出来ないという事です。神の支配下に置かれるとは、神が全ての事を成し遂げてくださるという事なのですが、そのように神に頼らないで、「自分で頑張りますから」と自分の力でやろうとする者に対しては、神はどうする事も出来ないのです。特にヤコブの場合は、神に助けを求める反面、自分でいろいろと画策して自分を守ろうとしているのですから、なおさら神はヤコブに手出し出来ないのです。

そこで、神も窮余の策を講じたのです。神はヤコブの腿のつがいを外されたのです。「腿のつがい」―腰の部分で人の最も力の中心点を意味します。神はついにヤコブをそのようにして打ち伏せました。

    人にはそれぞれ自分が依存している部分があるのです。神様に触れて欲しくない頑固な部分があるはずです。神が守っていてくださると頭では知っていても、神に全てをお任せする事は出来ないという頑固な心、自分でなんとかするという生き方をこれまでもしてきて、それでなんとか切り抜けてきたという自負があるはずです。

ヤコブは贈り物をするという方法で兄エサウをなだめよう考え、細かな指示をしもべ達に出して、上手くやっていけると思っていました。ところが今回は、それでも恐れが消えない。心配でたまらない。心に平安がない。確信がない。安心がない。不安だ。だから、なんとかしようとして・・と、意味もなく、夜の夜中に家族を起こして川を渡らせるというような事になっています。そのようなヤコブのところに、神の人が彼を組み倒そうとして来たのです。少々乱暴なやり方ですが、ヤコブの腿つがいを折る事によって、神に頼るようにさせたのです。それによってヤコブは神にしがみつきました。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ!」

この格闘によってヤコブは変えられました。私達もあらゆる問題の原因は実は自分の中にある事を認めて、砕かれるという経験が必要なのです。

ヤコブという名前は「かかとをつかむ者・人を出し抜く者」という意味がありましたが、28節でその人によってイスラエルという名をもらいます。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」

これはヤコブが心砕かれて神に勝利があり、それによって霊的な勝利を得たという事なのです。ヤコブはその人が誰なのかわかっていたのですが、確認をしたくて29節「どうかあなたの名を教えてください!」と尋ねると、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言ったのは、「言わなくても、もうわかっているのだろう」という事です。そしてヤコブを祝福しました。

夜通しの長い闘いの後に祝福と恵みが注がれたのを象徴するように、31節「太陽は彼の上に上った」とあります。そしていつまでもこの時のことを忘れる事なく、祝福に慣れて高慢にならないよう、腿つがいを外されたまま生涯を送りました。

 

同じように弱さを抱えながら、それでも力強くイエス・キリストの福音を宣べ伝えたパウロ。彼は第2コリント人への手紙12章9節10節の中で「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです」と言いました。パウロの「弱さ」についてこの第2コリントの12章1節から読んでいきますと、パウロは特別にパラダイス・天国に引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできない言葉を聞いた経験が、あまりにも素晴らし事だったので、神はパウロが高ぶることのないようにと肉体に一つのとげが与えられました。この「肉体のとげ」が何を意味しているのか、いろいろな説があります。それまで何度も石打ちにあっているので、その後遺症があったのではないかとか、顔面神経通による「目の病気」という説もありますが、「とげ」は痛いわけですから、それを一刻も早く取り除いてくださいと、何度も祈り求めました、しかし、主の答えは意外でした。「わたしの恵みは弱さの中に完全に現される」という返答でした。つまり、弱さの中にこそ、主の恵みと御力はさらにまさって示されるというのです。パウロはそのことを受けとめたのです。

 神は、私達の人間の弱さに引き付けられるお方である事を、忘れないでください。

もしも「私は強い。私は出来る」と言っているなら、神は遠くにいらっしゃいます。

神はそんな人に「そこまで言うなら、やってごらん。どこまで出来るか、やってごらん」とおっしゃいます。やがていろいろな問題に巻き込まれて、「神様、助けてください」と叫ぶようになります。その時に神は近づいてくださるのです。

 

 最後に一人の青年の証しを紹介します。名前は宮脇誠作さん。彼は小学校2年生の時に難病の筋ジストロフィーと診断されました。原因不明、治療法も無いこの病気は全身の筋肉が成長と共に動かなくなり、最後は心臓を動かす筋肉が停止してしまう大変な病気です。彼は26歳で召されていきますが、その1年前に次のような文を書きました。

「筋ジストロフィーからは、多くのものを得ることが出来ました。両親を始めとし、多くの人達が私を支えて下さり、その暖かい心に触れることが出来ました。思うように動けない体で過ごしているお陰なのか、忍耐力もずいぶん備わってきたように思いますし、できる限り笑顔で明るく過ごせるようになりました。」

大変な難病からでさえ、良きものを得ていった彼の心の豊かさを感じさせられます。

感謝する事は探せば必ず見出すことができるのです。

神はどのような状況の中にも、私達に感謝できる恵みを与えて下さっています。神が与えて下さる宝探しの達人として、神が与えて下さっている良いものをしっかりと見出し、神に感謝を捧げる歩みをさせていただきましょう。それが祝福を受ける秘訣です。

 

詩篇136篇1節「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」