創世記30:1-24「レアとラケルと神の憐れみ」

 

前回は真也先生のメッセージでしたが、「主にある交わりを通して温かさに成長する」

「神の導きを信頼する」それは神にはご計画があり、神の最善の時を待つ信仰であるという事を学びました。

 

今日は創世記29:31-35・30:1-24から「レアとラケル・二人の確執」と「神の憐れみ」についてご一緒に学んでいきたいと思います。

ソロモン王は都上りの歌と呼ばれる詩篇の中で子供が与えられることに関してこう書きました。詩篇127:3「見よ。子供たちは主の賜物、胎の実の報酬である」

子供は主から与えられた祝福ですあり、命は神の大きな奇跡の中にあります。教会のメンバーである小林佳子さんに8月9日男の子が、また以前一緒に働きかぬまプレイズチャーチで証ししてくれたオーストラリア人のレベッカにも先週男の子が誕生しました。

私達もひとりひとりそのように命を与えられたので、ここにいます。そして今、イエス様によって新しい命に生かされています。

 

創世記29章31節以降はヤコブと二人の妻レアとラケルそしてそれぞれの女奴隷ビルハとジルパを通して、神から与えられた約束「あなたに多くの子孫を与える」という事が成就されるという話ですが、その背景にはラケルとレアの女の争いがあります。

29章31節「主はレアが嫌われているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた」とあるように、主は憐れみによってレアは身ごもり男の子を授かり「ルベン」「息子を見よ」という意味の名前を付けました。そこにはレアの人間的な思い、子供が与えられれば夫ヤコブは自分に向くかもしれないと期待を寄せたのですが、そうはいきませんでした。そしてまた身ごもり男の子を授かり「シメオン」「祈りを聞かれる」という意味の名前を付けました。主はレアの悩みをご存知でしたし、レアは主にいろいろな事を謙虚に祈り続けてきたのです。そして3人目を身ごもり「レビ」「結びつける」という意味の名前を付けました。

今度こそは夫ヤコブの愛が自分に向くだろうとレアの祈り求めている思いで子供たちに名前を付けたのです。そして4人目の男の子を授かり「ユダ」「ほめたたえる」という意味の名前をつけました。この時にレアは夫ヤコブの愛を求めるのではなく、神に愛と慰めを求め、主をほめたたえるようにと変えられたのです。神に愛されている事を知るようになったのです。レアはユダを産んだ後しばらく夫ヤコブとも一緒にいる時間がなかったのでしょう、子供を産まなくなったと35節にあります。レアに与えられた男の子の内、レビは祭司職を担うレビ族の先祖に、ユダは王権を担うユダ族の先祖になっていきます。イスラエル12部族でも大切な役割を果たす祭司職レビ、王権を担い救い主イエス様がこのユダ族から出るという壮大な神のご計画をみると、人間の思いとはまったく違った所に神の思いがある事がわかります。

 

次に30章1節から24節を見ていきたいと思います。

姉のレアが神の哀れみによって子供が授かると、心穏やかではないのは妹のラケルです。

ラケルは夫のヤコブに「私に子供を下さい。でなければ私は死んでしまいます」と言うほどに、ラケルの心は、すさんでいました。ヤコブが一目惚れするほどに美しく夫からも愛されているのだという優越感で生きてきた彼女が、姉のレアにどんどん子供が与えられるのを傍らで見ながら、今度は劣等感にさいなまれ、とうとう「私に子供を下さい。でなければ私は死んでしまいます」と夫ヤコブを脅すほどの言葉を投げかけました。本来なら神にぶつけるべき感情ですが、今おかれている状況への不平不満を夫に投げかけてしまう、わかる気もしますが、決して穏やかではありません。ヤコブはそんな妻ラケルに対して怒った口調で「私は神ではない。おまえに子供が与えられないのは、神がそのようにしておられるからだろう」と、全ては神のご計画の内にあるのだから、いくらどんなに愛し合っていても、人間的な努力をしても、神の御心でなければそうならないのだと言いました。

アブラハムも、イサクも そしてヤコブも 妻の不妊で悩み、それを通じて信仰の訓練を受けたのです。ここでラケルも主に心を向けるべきでしたが、3節をみると人間的な解決を進めます。「では、私のはしためのビルハがいます。彼女のところに入り、彼女が私のひざの上に子を産むようにしてください。そうすれば私が彼女によって子供の母になれましょう。」と提案します。アブラハムの妻サラもそう提案し、夫であるアブラハムがそうしたように、ヤコブも妻ラケルからの提案に乗りました。ラケルもヤコブも神様を信じ求めながらも、自分達の知恵に頼ったのです。そしてビルハは男の子を産みダン 名前の由来は「神様が正しく裁いて下さった」という事ですが、6節「神は私をかばい、正しくお裁きになり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」というラケルが言った言葉と、創世記29章31節「主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた」、創世記30章17節「神はレアの願いを聞かれたので、彼女はみごもって、ヤコブに五番目の男の子を産んだ」また創世記30章22節「神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた」と比べてみると。先の6節のラケルのいった言葉は彼女の思いであり、「神が正しくお裁きになってくださったのだ」と思い込んでつけた子供の名前ダンでした。女奴隷のビルハがまたみごもって二番目の男の子を産みナフタリ、意味は争うですが、根拠は8節「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と、主なる神に対する感謝の心などなく、ただ姉レアへの嫉妬心から子供を設けようという事がわかります。

ラケルとレアの執念、争いはさらにエスカレートし、レアが自分で子供を産まなくなったのを見て女奴隷のジルパをヤコブに与え、男の子が生まれると名前を「ガド」「幸運が来た」、そしてジルパが二人目の男の子を産むと「アシェル」「なんとしあわせなこと。女達が私を幸せ者と呼ぶでしょう」と子供たちの名前からレアの心から主を礼拝する、主に感謝をささげる気持ちはどこかにいってしまった事がわかります。そのようなレアとラケルの様子を見て子供たちはどう思っていたのでしょうね?

14節「さて、ルベンは麦刈りのころ、野に出て行って、恋なすびを見つけ、それを自分の母レアのところに持って来た」レアの長男ルベンは母親思いの男の子なのでしょう。子供が産めなくなった母の様子、いつまでも子供産合戦をしているのを一番そばで見ていたルベンですから、当時、受胎効果があるとされていた「恋なすび」を母のためにと取ってきたのでしょう。「恋なすび」は、マンドレイクという名で知られていて、昔から薬草として使われていました。麻薬のような効果があるそうですが、この恋なすびを巡って14節の後半から15節でのラケルとレアの会話を読むと、なんだか恐ろしい女の執念が読み取れます。確かにラケルは、なかなか自分に子どもが生まれないことが辛く、どうしても生みたいという願望で、ルベンが見つけてきた恋なすびで何とかなるのではと、自分と夫との時間と引き替えて、恋なすびを手に入れたのですが、そんな姉妹のやり取りを知らないヤコブは夕方仕事を終えて帰宅したとたん、レアに言われたのは「ラケルが息子ルベンの見つけた恋なすびと交換に今夜は私と過ごしていいと言っていたので、そうしてください」と言われ、ヤコブは一夜をレアと過ごしました。そして17節「神様はレアの願いを聞かれたので、彼女はみごもって、ヤコブに5番目の男の子を産み、「イッサカル」「神様は私に報酬を下さった」と名付け、レアはまた身ごもり6番目の男の子「ゼブルン」「神様からの贈り物」という名を付けました。そして次は女の子「ディナ」「正義」と名付けました。後にこの女の子「ディナ」は大変な事件に巻き込まれていきます。

いずれにしても、ラケルが恋なすびと夫との時間を引き替えにした結果、姉のレアには子供が与えられ2人の子を身ごもり、ラケルは身ごもりませんでした。

 

これをきっかけにラケルは自分の愚かさに打ちひしがれ、罪深さを実感し、主に心を向けて切実は思いで主なる神に近づき、祈り求めました。そのようなラケルを神は覚えてくださり、神はラケルの胎を開かれたのです。そして男の子を産んだとき、23節「神は私の汚名を取り去ってくださった」と自分の罪深さを主が取り除かれ、主の祝福を受けたと告白し、さらにその祝福が加えられるようにという思いを込めて、その男の子をヨセフと名付けました。ヨセフも後にイスラエルにとって大きな役割を果たす事になります。

 

 今日の聖書箇所、ことの発端はレアとラケルの父親であるラバンの策略に始まり、二人の姉妹の執念の争い、人間の罪深さを見ますが、それでもレアとラケルはこの事を通じて、個人的に主の前に出ていき、憐れみを受ける経験をします。

そして神様の約束された「あなたの子孫は地のちりのように多くなる」というご計画が進んでいくのです。

 「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私達は知っています」とパウロはローマ人への手紙8章28節で言っています。さらにローマ人への手紙11章36節から12章1節から3節でパウロは「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えられ続けなさい。私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」と勧めています。

 

レアとラケルのとった行動からもわかるように、解決不可能な問題に直面したときに、どのような心の態度をとるのか、いつも神に信頼を置き、従う時に神からの祝福を受ける事ができるのです。

 

 旧約聖書の中に箴言という書物がありますが、その箴言の10章22節「主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない」生きていく上で苦労は付きものですし、自分の力でなんとかやっていかなくてはと思うものですが、この言葉を心に覚えることで、すべては神が与えてくださるのだと立ち返る事が出来るのです。私たちが、神からの祝福を受ける秘訣は、3つあります。

1.神は、豊かな方であることを信じる。

2.神は、愛と憐れみに満ちた方であることを信じる。

3.神の前に心砕かれ、謙虚になる事。

主なる神と心のベルトをしっかりかけて、神に祝福された人生を歩みましょう。

 

旧約聖書に「申命記」という書物があります。モーセが書いたものですが、エジプトからイエスラエルの民を解放するために用いられたモーセ。「モーセの十戒」は有名ですが、モーセが自分の死を思い、イスラエルの民に神から預かった言葉を語った記録です。

「申命記」の8章17節18節にはこう書かれています「あなたは心のうちで、『この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ』と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである」

私たちが祝福されるのは、私たちに何かがあるからというわけではありません。主の約束があるので、神は私たちを必ず祝福されるのから、その祝福を神からのものとしてしっかり受け止めていく心構えが大切なのです。主の祝福に預かった時には、いつでも主に対して感謝し、主の栄光をたたえなくてはいけない、主あっての私たちであることを、全てが神にかかっていることを覚えて、神に栄光をお帰しする者でなければなりません。そうでなければ、神はその祝福を取り消すこともできると警告しています。主への感謝を忘れずに、しっかりと主の祝福を受けて歩む者となりましょう。

 

レアやラケルが子供を授かった時の名前の付け方から、どこに心が向いているのかが分かるように、私達の心が主なる神に向き、いつも感謝の賛美がある者でありたいと願います。

 

詩篇の作者の一人であるダビデ王はどんな状況にあっても主をほめたたえました。

詩篇34篇1節「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」この詩篇を読んだ時ダビデは敵から追われ、逃れるために気が狂ったふりをしました。そして敵の手から解放されたので、主に感謝の賛美を捧げたのです。

 私達も、苦しい状況に置かれたときも、なんでもないときでも、いつでも主への感謝を捧げましょう。私達は主に望みを置いて、日々歩みたいと思います。