2017年9月9日マタイ6:16-24「心を主に向ける」

 

 皆様のおかげで、映画上映会に多くの方の来場があり、無事に終えました事を感謝します。

 

 先週は大角詩音先生より「祈る時は」と題して、「自分の栄光(賞賛)ではなく、神の栄光(賞賛)を求める」ことを心において祈る、そして「祈り」は天の父なる神様との深い関係を築くのにとても大切な事だというメッセージを頂きました。

 

「祈り」に続いて語られている今日の聖書箇所から「断食について」と「天に宝をつむ」という二つのポイントから「心を主に向ける」ことを考え、主を礼拝する恵みにあずかりたいと思います。

 

 みなさんは断食したことがありますか? 神様は私達を作られたので、自然と断食出来るようにしてくださっています。断食を英語でfastと言います。最近ではプチファスティングという言葉を聞くようになって、fastは食事を断つ事だと理解する人も増えましたが・・・。では、いつfastをしているかというと寝ている時です。なぜなら、朝起きて食べる朝食をbreakfastと言います。断食を破る・・・。

いずれにしても、私達の造り主である天の父なる神様は、私達が休めるように断食が出来るように造ってくださっているのですね~。

 なぜイエス様はこの箇所で「断食」について教えていらっしゃるのでしょうか?

それは何をするにも主に向かってするのであって、自分がしていることをひけらかすような心でするな、という事です。

マタイの福音書6章1節で「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。 そうでないと、天におられるあなたがたの父から報 いが受けられません」と「主の前に義とされる」とはどういう事なのかをおっしゃっています。

パリサイ派律法学者達が好んで善行(これをすれば神の前に、人の前に良しとされる)としたのが、施し、祈り、断食です。施しは人に対する行為、祈りは神様に対する行為、断食は自分に対する行為です。この箇所での「断食」はある特定の期間、「食を断つ」ことを意味します。

聖書における「断食」の目的についてですが、ヘブル語で「ツォーム」=「食を絶つ」という意味だけでなく、「節制する」という事でもあり、自分の罪を悲しみ、神様に悔い改めることでした。その表現として、断食には、「荒布をまとったり、灰をかぶったり」という行為が伴いました。ところが、今日の箇所でイエス様は「あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい」とおっしゃっています。それは当時、断食をする者たち、とくにパリサイ派律法学者達の心に、「人からよく見られたい、思われたい」という偽善があることを見抜いていたからです。

特に当時のパリサイ派律法学者たちは週に二回断食をする習慣がありました。しかし、あくまでも断食は強制されるのではなく、自発的な行為であって、イエス様は決して弟子たちに断食を勧めませんでした。その事はマタイの福音書9章14節、15節を読むと分かります。では、聖書における断食の真意は①何か重大な使命が与えられる前と与えられた後②深刻な決断に直面した時 ③ある特別な霊的な目的のために全存在を神に集中させる必要を感じた時、つまり神様のことを集中する深い祈りをする時に行われることなのです。

断食をすることも聖霊様の助けがなかったらできません。しかも断食している事は隠されてなされるべきであり、それに天の父が報いてくださるのです。いつもと変わらない日常の中で、断食に限らず、イエス様と向き合うために断つべきことがあると思います。何気なくテレビを見ている時間、何気なくスマホやタブレットをいじってしまう時間、無駄に働いている時間など、ちょっとしたことを断つ時間を神様に向けてみることで、祝福が与えられるのです。なかなか祈れなくって・・・という時、1分でもちょっと手を休めて静まる時間をつくるようになると、神様との親しい交わりの持ち方が体験的にわかってくると思います。

詩篇91篇1節「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る」とあるように、他人の目など気にせずに、キリストを目指し、キリストにとどまり、そこに隠れることの祝福を味わえるように願います。

 

 次に「天に宝をつむ」ことについて考えてみたいと思います。私達の富に対する態度について、イエス様は教えてくださっています。

生活のためには、お金が必要です。お金がなければ、衣食住を保つことができません。

教育を受けることもできません。ですから、収入を得る事は大切ですし、金銭の管理を怠ることはクリスチャンにとってふさわしくありせんが、この世での富を重視しすぎる事は、富の、お金の奴隷になってしまいます。ですから祈りの中で献金額を決めてその額を日常使っているお財布から分けていらっしゃると思いますし、神様に捧げて、残ったお金でどのように生活をするのか、一応の生活予算を立てていらっしゃると思います。いずれにしても、すべては神様から与えられているものであることを忘れてはいけないのです。

 主の祈りをご一緒に祈り、皆さんの日々の祈りになっていると思いますが、「日々の糧を今日もお与えください」と祈る時に、毎日の糧は神様の恵みによって与えられ、生かされていることを思い返します。うっかりすると私達は神様の力でなく、金様の力が全てだと勘違いし、この世の富に執着してしまう、ここに問題があるのです。

 私達の心がどこにあり、何に執着しているのかを考える必要があるとイエス様は教えてくださっているのです。

 ルカの福音書12章15節でイエス様はこうおっしゃいました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです」

このルカの福音書12章15節の言葉に対しての、わかりやすいたとえ話が16節から21節に書かれています。どんなたとえ話かというと「あるお金持ちの人の畑が豊作で、心の中で、『こんなに豊作で今の蔵には収まり切れないから、もっと大きな蔵を建ててそこに貯めておこう。そしてもう心配ないから向こう何年と遊んで暮らそう』とつぶやくと、神様は彼に『愚か者め! おまえの魂は今夜おまえから取り去られる。そうしたら。おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか!?』このとおり、自分のためにいくらこの地上でため込んでも、天国に財産をもっていない者は、愚か者なのです」

豊作も神様がしてくださった恵みです。それを忘れてはいけないのです。そして豊さをどう生かすのか、神様に感謝を捧げ、喜ばれる使い方をしたいものです。

 ユダヤ人の精神科医ビィクトル・フランクル博士は「人間には三つの価値観がある」と言います。

  一つめは「創造的価値観」です。これは、どれだけ多くのものを創り出せるのか、ということに価値を見出します。多くの富を集めること、高い社会的地位に付くこと、広く名声を集めることを追求します。しかし、この価値観をしっかり握りしめている人は、それを手に入れることができなかった時、大きな挫折感を覚えますし、たとえ手に入れたとしても、今度はそれを失うことに恐れを抱くようになるのです。従って、不安定な人生を歩むことになります。

二つ目は「体験的価値観」です。これはどれだけ多くのことを体験できるか、どれだけ多くの人々と知り合いになれるか、ということに価値を見出します。

 この価値観を持つ人は活動的でエネルギッシュです。世界中に旅行に出かけ、可能な限り人の集まりに参加し、多くのことに興味や関心を持ちます。

 多くの知恵や情報がその人のものとなるでしょう。しかし、この価値観に支えられている人は、やがて失望感に襲われ、焦燥感に駆られることとなります。なぜなら人は皆老いていくからです。気持ちとは裏腹に身体が段々と言うことを聞いてくれなくなります。自分の世界がどんどん狭まって行くのです。

 三つ目は「態度的価値観」です。これはどんな態度で人生を送るかということに重点を置いて生きる生き方です。何が起こっても、どんな状況や環境に置かれても、また、何歳になろうと、その中でいつも積極的、肯定的、独創的な態度を選択することを決めている人は、周囲の状況によって決して左右されない生き方ができるのです。

 

1805年デンマークに一人の男の子がとても貧しい家庭に生まれました。彼が生まれたのは棺桶の中でした。お母さんは他人の汚れ物を洗って生計を立てていました。おばあさんは庭掃除をしてお金をもらい、おじいさんは精神病院に入っていました。

本当に貧しい家に生まれ、貧しい生活の中で彼は育ちましたが、お母さんが彼に夢を与え続けました。彼は大人になって恋をしましたが、恋をした相手にことごとくふられ、失恋ばかり、ついに彼は生涯独身で過ごしました。彼は70歳まで生きて、彼が最後に言ったことばは こうでした。「私の人生は童話のように幸せでした」

 この彼とはアンデルセンのことです。アンデルセンはなぜこのような環境や状況の中にあっても「幸せでした」と言えたのでしょうか。 その秘訣を彼はこう言っています。

「私を愛し、私を助けて下さるイエス・キリストがいつも共にいてくださったからです」

 正しい価値観は、状況や環境が変わっても、それでもなお、私たちに喜びや平安や希望を与えてくれるものです。

 私達の価値観は、いつも心を主に向けることによって、いつも正しいものにされます。

そして天に宝を積む者でありたいと思います。

 

 お祈りします。