2017520日マタイ1:18-25「私たちと共にいて下さる神」

 

この一週間は皆様にとってどんな一週間でしたか?神様の助けによって支えられた週だったと思いますが、神様が共にいてくださる、助けてくださると、信じていますね? 

 

先日、ちょっと用事があり東京へ行きました。その帰り東武を利用した方が安くて速いので、「春日部で特急に乗れば午後9:30には鹿沼に到着する」だけを覚えていて、慌てて乗車券と特急券を買いました。息を切らして春日部に着き、特急に乗り込みました。電車が走り出し、座席指定ですから、自分の番号を見ながら車内をキョロキョロ、すると「番号がない・・・それで車掌さんに「あのぉ、すみません。番号がないんです。もしかしたら、間違って乗ってしまいましたか?私は鹿沼に帰れますか?」すると、車掌さんは「あ、時間を間違えましたね。これは確かに鹿沼に行きますが、本日は満席ですから、座席の用意が出来ないかもしれませんし、追加料金がかかるかもしれません。車両後部に立って少しお待ちください」そう言われた瞬間、私は心の中で「神様、座席がないのはいいですけれど、財布にはあと300円しかありません。追加料金を請求されたら困ります。助けてください」と祈りました。数分後、車掌さんが戻ってきてこう言いました。「お客様、座席に空きが出ました。そして追加料金は無しで大丈夫です」ハレルヤ!!このような祈りでも主は聞いて下さるのです。(笑)私が乗った特急はゴールデンウィークから運転されている特急リバティで、ちょっと高級感のあるものでした。そして、駅に降りると、今度結婚式を挙げるクリスチャンの子のお母様にバッタリ会ったりしました。(笑)そのやり取りを見られていたかなぁ?なんてちょっと恥ずかしかったですが、そこで会えたのも奇跡ですね!

 

今日はよく11月から12月で読まれる聖書箇所からメッセージを取り次がせて頂きますが、クリスマスだけに読んで考えるだけの箇所ではなく、神の奇跡、預言の成就、奇跡の中での人間の戸惑う思い、その思いに寄り添って励ます聖霊様の力、そして神であるのに人の姿をとって来られた救い主イエス様は、いつまでも私達と共におられる神であるお方である事が、今の私達にとってどれほど慰めとなるのかをご一緒に見ていき、神の愛と恵みを受け取りたいと思います。

 

18節には「ふたりがまだいっしょにならないうちに」とありますが、当時のユダヤの習慣で、婚約者は普通1年程度の婚約期間を経て実際の結婚生活に入る事になっていましたから、婚約期間であったマリヤまだ処女であった時に妊娠したのです。先にマリヤが自分が聖霊によって身ごもったことをみ使いに告げられてわかって、ヨセフにその事を告白しました。しかし、この時にヨセフにとっては理解しがたい事でしたから、18節から20節に書かれている事から察するにヨセフがどれほど思い悩み、どうしたら良いのか迷いに迷ったあげくに決断したのは内密にマリヤを去らせる事でした。なぜなら、結婚していないのに、身ごもったという事に対して二つの選択肢がありました。申命記22章23節から27節の律法の規定に従って、マリヤを法廷でさらし者にして石打ちの刑にするか、証人ふたりの前で離婚状を与えて内密に去らせるかのいずれかです。 石打ちの刑とは漬物石くらいの大きい重たい石を投げつけてその打撃と重さで苦しく死んでいく刑です。心優しく愛と憐れみに富む正しいヨセフの決断は、マリヤを「表ざたにする事を望まずに去らせる事でした。そのような苦悩の中のヨセフを救うために夢の中で天使が現れてこう告げました。20節21節「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」そして23節「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)」、22節にあるように、すべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであったのです。その預言はどこに書かれているのでしょうか? イザヤ書7章14節です。イエス様のお生まれになる約700年前にこの事が預言されているのです。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」

イザヤ書にある「インマヌエル」の預言がなされた歴史的背景を知るならば、この名前の意味がより深く理解できますので、少し説明させて頂きます。イエス誕生の約700年前、アッシリアが一躍、世界の大国となり、中東の地域に大きな脅威をもたらすようになり、隣接するアラムは北イスラエル王国と反アッシリア同盟を結び、ユダの王アハズにも同盟を呼びかけました。しかしユダ王国のアハズ王はその呼びかけを断ります。断ったために反アッシリア同盟軍がユダ王国を押し寄せて来るという情報がアハズに伝えられた時「王も民も震え上がり、暴風にゆさぶられる木々のようにおののいた」とイザヤ書7章2節に表現されるくらいに、強い恐怖心を抱いていました。 そこで主は預言者イザヤを遣わし、アハズ王に「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。・・心を弱らせてはなりません」と語り、同盟軍の滅亡を告げます。そして、アハズが静けさへの招きに答えることができるようにと神は次のように提案しました。イザヤ書7章11節「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから」どこであれ、どんなしるしであれ、それを行なうと神の約束を表しています。「よみ」とはここではアッシリアやエジプトを表わしていますが、この言葉は強国アッシリアやエジプトのような人間的な力に信頼するか、それとも高い天に住む神に信頼するか、その選択の決断を迫るものでした。ところが、これに対してアハズは「私は求めません。主を試みません。」と答えます。一見これは信仰深い人の反応のように見えますが、アハズは神の言う事を知りたくなかったし、神に従いたくなかったというか、神に信頼していないのです。これは神をないがしろにする行為でしたから、それを聞いた預言者イザヤは、「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。」とアハズを非難しています。

預言者イザヤがアハズに語ったことは、神を絶対的に信頼せよということでした。アハズは神が支配する国の王であったにもかかわらず、危機的な状況において、神を信頼する事が出来なかったのです。「恐れ」は、人間の深いところにある自己存在感を脅かすものです。だからこそ、信頼すべき確かなお方は「インマヌエル・ともにいる神」なのです。神の忠告は「信じなければ、あなたがたは確かにされない」ということです。アハズに求められた「静けさ・平安」は人間が作り出せる落ち着きではなく、神からくる「静けさ」であり「平安」なのです。神の言葉に立ち帰り、安らぎに入るなら、救いが現実となり、自分の考えに信頼するのではなく、神に静かに信頼するとき、事態を乗り越える力が与えられるのです。「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主により頼む者は幸いである」と箴言1620に書いてあり通りです。私達の生き方のマニュアルである神の御言葉に頼るものは、幸いなのです。たとえば、機械の操作もマニュアル通りに操作する事でスムーズに操作する事ができます。もしトラブルが起きればトラブル対応マニュアルで何とかなりますが、自分勝手に操作するとダメにしてしまう事もありますね。車の運転もどんなに高級車でもハンドルを握る人によって運転の質が違いますよね。人生のハンドルを誰に握ってもらっているかによって、私たちの人生も変わると思います。

では人生のハンドルを握って頂いている主なる神は、イエス様はどんなお方でしょうか? 私達の天の父なる神様は、みんなの神様だから忙しいだろうし、ちょっとした事で面倒を掛けるから、なんとか自分の力でやってみるから、ちょっと運転席をどいてくれませんか?私がハンドルを握った方が、運転がスムーズですよ、今の車は昔の車と違っていろいろな機能があるし、操作も簡単になったんですから、なんて思ってしまいがち? 

もう一度、ひとりひとりの祈りを聞いてくださる神であり、全能の神が人生のハンドルを握ってくれる安心感に信頼して歩みたいものです。

ピリピ人への手紙46節、7節「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」「何事も思い煩ってはならない・心配するな!」と主は言ってくださるのです。思い煩うことは神様を悲しませることです。思い煩う事は神をないがしろにする事です。

 時々、人はその状況において不平不満を自分だけでなく、他の人にこぼして、事態を悪化させてしまう事があるかもしれません。イエス様を信頼している者は、他の人に不平不満を言ったり、悩みを打ち明けるのではなく、主イエス様の前に静まって、なんでも聞いてくださるイエス様に向かって心を打ち明けるところに、主の最善な解決策があるのではないでしょうか? 私達の主イエス様は「いつも、どこでも一緒にいて下さる神」なのです。

 

 24節を見てみましょう。ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」、とヨセフは夢の中で語られた言葉を100%信じて従いました。同時にどんな困難があっても妻マリヤを守り、聖霊によって生まれてくる特別な子供のために覚悟を決めたのでしょう。その困難を乗り越えるために力を与えてくださる神に信頼したのです。ヨセフは自分の感情ではなく、主に従いました。誰がなんと言おうと、自分と神との関係の中で従うことを決めた誠実な人でした。 25節「子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく」とあります。これもメシアの処女降誕を示ための言葉です。イエス様の誕生後は、ヨセフとマリヤは普通の結婚関係に入り二人の間に少なくとも4 人の息子と2人の娘がいます。この子供たちはイエス様と共に生活をしていながら、イエス様を神であると信じるのはとても後になってからの事でした。ヨセフとマリヤはイエス様が神の奇跡によって与えられた子供だと分かっていても、兄弟達はなかなか理解できませんでした。マルコの福音書3章21節には「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」とあります。しかし、彼らが大きく変えられてイエス様を信じたのは、イエス様の十字架と復活されたイエス様との出会いなのです。       いずれにしても、ヨセフに主が働かれ、それに従ったので、神の奇跡が現れ、祝福が注がれました。そのような信仰を私達も求めていきましょう。

 

最後にクリスチャンの方を紹介します。画家でゴスペルシンガーのジョニ・エリクソン・タダさんです。現在67歳です。彼女は17才の時、ダイビング中に首を骨折して、四肢麻痺になり、医師から一生治らないと宣告されましたが、ベッドに固定されて天井を見つづけているという絶望のどん底で、キリストに希望と喜びを見いだしたのです。口に筆をくわえて絵を描く画家として有名になり、今では、車いすで世界中を回って、キリストの福音を伝えています。「ジョニーさんはとても強い人ですね」と多くの方から言われるそうですが、これに対して彼女は「私は弱い人です。弱いからキリストに頼ります。キリストに頼るから私は強いのです。自分の弱さを誇れる私は、とても幸せです。反対に、自分の強さを誇って、キリストに頼らない人は、とても不幸だと思います」と彼女は言います。彼女の体は車いすに固定されていても、心は喜びに満たされ、世界へと自由に羽ばたいています。やがて天国へ行った時には、完全に自由な体になるのだと、希望に燃えています。60歳の時に乳がんの宣告を受けました。その手術を受けて後、彼女は「いやしの場:苦しみ、痛みと神様の主権の不思議」について確信を持って語っています。そこには苦しみに会う事と神の存在をどう捉えれば良いかという事です。「乳がんの宣告を受けてからといって、信仰にぶれる事はない、なぜなら神の言葉は永遠に変わる事がないからです」というジョニーさんの信仰を支えている御言葉は「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」という第1ペテロの手紙2章21節です。乳がんを通して主イエス・キリストの存在がより身近に感じるようになり、主イエス様のご性質とその御業の素晴らしさがもっと理解できるようになったと言います。イエス様はヨハネ14章で『わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます』とおっしゃった事が体験を通じて理解できたのです。イエス様は3年間宣教をされましたが、地上での生涯を終えられる時には、信仰の弱い12人ほどの弟子しかいませんでした。復活後昇天され、聖霊を送ってくだり、驚いたことに弟子の一人ペテロが一回説教をしただけで、何千人もの人が信じたのです。それこそが、神様が私たちに望んでおられる「さらに大きなわざ」なのです。同じことを私は病院で体験しました。レントゲン技師、看護師、医師の秘書、医療スタッフなど、放射線治療やMRI検査で非常に多くの人達との出会いがあり、そのたびにイエス様を信頼して歩む人生の素晴らしさを分かち合う事が出来るのです。どの人も救い主が必要なのです。神が望んでおられるのは、福音が広がる事です。この世に生きている限りは、苦しみや辛いことはあります。しかし死をも打ち破って勝利されているお方であるイエス様が共におられるのです。そのイエス様に祈り求める事が出来るのは、魂に幸いを得る事なのです」と彼女は語っています。彼女が2014年に公開された映画「Alone yet Not Alone/一人でも孤独ではない」という映画(日本では上映されていない)の主題歌を歌っています。この映画の内容は、アメリカの開拓時代に、ドイツからペンシルバニアに移住してきた家族の娘が先住民に誘拐されるという試練の中でも信仰を持ち続け、数年後、その娘は無事に帰ってきたという実話に基づいたドラマです。その主題歌の歌詞を紹介します。

「一人でも孤独じゃない。愛と優しさ溢れる神の光が私を家にいざなってくれる。たとえ、どんなに険しい道であっても、決して孤独ではない。全能の神の愛、恵み、憐れみが、私を守ってくれるので私は決して恐れない。たとえ道に迷っても、神は共にいてくださり、必ず行くべき道を示して下さる。だから、一人でも孤独ではない。いつも神が共にいて下さり助けてくださるから・・・」イエス様は私達に約束を与えてくださっています。

ヨハネの福音書14章16節-18節「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」

 

私たちと共にいて下さる神に信頼し、今日も、明日も歩んでいきましょう。

 

                             お祈りします。