20161112日創世記38章 「ユダの悔い改め」

 

ある寓話です。「ロバが塩を背負って川を渡っていた時に誤って転び川の中に落ちてしまいました。すると背負っていた塩は水に溶けて前よりも軽くなったのです。ある日ロバは、今度は綿を背負っていました。塩よりも軽かったがもっと軽くなるのではないかと思い以前のように川の中に落ちてみたのです。すると綿が水を吸って重くなってロバに絡みつき流されてしまいました」

という話です。この話は何を教えてくれるかというと、「私達の人生に成功のパターンはないという事」です。これをすれば、あれをすれば成功する。ある意味魅力的ですが、私達は人生においてその場その場でベストな考え・答えを見つけ出していくのです。

私達の信仰生活にも同じような事が言えるかもしれません。それぞれに全く別の人生が与えられています。ではその中で、最善の道をどのように見つけていくべきでしょうか?それぞれが神様のみ声を聞き見つけていくべきですね。イエス様はこう言いましたね。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」神様の支配と、神様のみこころをいつも求めていく、それこそ私達がどのような状況にいようと神の道に導いてくれるのです。

 

しかし、もちろん失敗もつきものです。今日の箇所に出てくるのはヤコブの息子、ユダという人物ですが、今日の箇所で彼も失敗しています。神の道を求めるのではなく、自分のしたいように物事を決めていったのです。

 

今日の箇所はヤコブの4人目の息子、ユダに関しての記事です。そしてここにはもう1人フォーカスされている人物がいます。それはタマルという人物です。ユダにはカナン人のシェアという女性との間に3人の息子が生まれます。それはエル、オナン、シェラの3人です。そして長男のエルの奥さんがタマルだったのです。でもエルはなくなってしまいます。7節において「ユダの長子エルは主を怒らせていたので、主は彼を殺した。」エルは主の前において何か罪を犯していたのでしょう。詳しくは書いていませんがエルは亡くなってしまいます。するとエルの奥さんタマルはやもめになってしまったのです。でも当時は夫が亡くなった場合は、夫に弟がいる場合には夫の兄弟に嫁ぐという風習がありました。この結婚の風習を「レビラート婚」と言います。これは中東の文化においてよく取り入れられていたものです。なぜこのような事を取り入れていたのかというと、様々な理由がありますが、多くの場合、最初の婚姻で結ばれた両親族の関係を維持し続けようとする事にあったのです。結婚は当人同士のものだけではありません。家族と家族が結び合わされるからです。

ですから、今日のタマルは自分の夫エルが亡き後、エルの弟のオナンに嫁ぎます。オナンはどうしたのかというと、タマルと子孫を残そうとはしなかったのです。子孫が与えられるというのは神様からの祝福です。自分の兄の嫁と子孫を残すなんて!?とでも思っていたのでしょうか。オナンは子孫を残す事を拒否しました。当然これも主の前には罪だったのです。オナンも亡くなってしまいます。またタマルは未亡人になってしまいました。すると義理のお父さんのユダがこう提案しました。「ではシェラを迎えなさい」でも3人目の弟のシェラはまだ若かったんでしょうね。11節「シェラが成人になるまであなたの父の家でやもめのままでいなさい」といったのです。でもユダの本心はV11「シェラもまた兄達のように死ぬといけないと思ったからである」といっているように、ユダはタマルと結婚する者に災いが起きると恐れていたのかもしれません。結局3番目の息子のシェラと結婚させようとはしませんでした。

それから少し時間が経って、ユダの妻シェアが亡くなってしまったのです。その後ユダが羊の毛を刈りにティムナという場所に行きます。この「羊の毛を刈りにティムナに行く」という本当の理由は、当時のカナン人が守っていた祝祭に出席するためでした。当時のカナン人が信じていたのは多神教です。神様を見失ったユダはその祭りに出かけます。そしてその場に行くと当時は神殿娼婦がいたのです。当時において娼婦と行為を持つ事が、豊作に繋がると考えられていた事もありました。妻を失っていたユダも当時の風習にのっとりこの時1人の娼婦と関係を結んでしまうのです。その女はこういったのです。16節「私のところにお入りになれば何をくださいますか?」ユダは「子ヤギを送ろう」でもそれを後にくれるという印をくださいと女は言いました。そこで女が「印形と杖とひもをください」と言ったのです。これはユダという人物を証明するものでした。ユダはその大切なものを渡してしまいます。でもその遊女とみられた女性はなんと自分の息子の嫁タマルだったのです。そこでユダはタマルと関係を持ち、この関係によって子供を宿してしまうのです。

タマルが夫がいないのに子供を宿した事が、後に皆にバレてしまいます。それに対してユダは「あの女を引き出して焼き殺せ!」と言ったのです。自分の義理の娘が売春をしたなんてとんでもない。そこでタマルはこう言います。「これらの品々の持ち主によって私はみごもったのです。」その時タマルが持っていたのはユダの持ち物、印形、杖、そしてひもだったのです。

これを見た時、ユダはどう思ったでしょう?ユダだけに、油断できない・・・!?と思ったでしょうか!?ユダはこの事実を認めざるを得なかったのです。26節「あの女は私よりも正しい。私が彼女を我が子シェラに与えなかった事によるものだ」と言ったのです。そしてタマルには双子ペレツとゼラフが生まれました。

この箇所を読んでいくにあたって、疑問がいくつかあります。まず一つはユダの3兄弟のうち上の2人はどんな罪を犯したのでしょう?長男に関しては「主を怒らしていた」としかありません。次男のオナンに関しては子孫を残す事を拒んだのです。つまり2人とも神の与えた計画を歩まずに、自分のしたいように生きていったのです。それこそ神が悲しむ事だったのです。ユダの息子達にとっては子孫を残すという事は彼らの使命であり神の計画だったのです。でもそれを拒んだのです。

私達はどうでしょうか?私達一人一人にも神の計画が与えられているのです。私達はそれをいつも選び取り神様のみ心を歩んで行くべきだという事です。

 

ではユダはこの箇所においていくつ神様の御前に間違いを犯したでしょうか?数え切れません・・・。まずは自分の民族家族を離れ住んだ事、そしてそこで異邦人と結婚した事。その事によってユダは神を見失い、子供達も主に背いた事。それにより妻が亡くなった後に妻以外のものと関係を持った事。それが自分の息子の嫁だった事。2重3重の罪ではなく4重5重の罪を犯したのです。

皆さんが聖書の記者だったとします。38章の前後37章、39章においては信仰深いヨセフの事が書いてあるのです。みなさんだったらこの罪深いユダの記事を載せますか?この記事は後世に何も意味がないのではないか?ある意味これが先祖の汚点として語られるのであれば残しておく必要がないのではないか?そう思っても不思議ではあえりません。ではなぜこの章をこのようにして残したのでしょうか?そこに隠されているメッセージがあるのです。

 

まず一つは、ユダの家系の偉大さにあります。神様はユダを選び、ユダの子孫偉大なものとしたのです。ヤコブがこの地を去る時に一人一人の息子達を祝福します。その時のユダへの言葉はこのようになっています。創世記 49:8「ユダよ、あなたは兄弟達にたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ/父の子達はあなたを伏し拝む」創世記 49:10「王笏はユダから離れず・・・統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」

さて、それからのユダ族の子孫にはどんな人物がいたでしょうか?ヨシュアの時代になると偉大な人物が出てきます。それはカレブという人物です。彼はヨシュアと同じ信仰の目をいつも持ち、モーセという偉大なリーダーが退き若かったヨシュアがリーダーになった時にヨシュアを支えた人物です。そしてヨシュア記14、15章を見ると、老年になっても、まだ自分には力がある、占領する地がある!といつも信仰の目を持った人物だったのです。そして当時12部族の中でも最も大きな割り当て地が与えられるのです。その後、時は過ぎていって紀元前1000年ごろになるとイスラエルは族長時代から王政に変わっていきます。そのイスラエルの王の中でも今でもユダヤ人の尊敬を得てやまないのがダビデ王です。ダビデももちろんユダ族出身です。そして王がそのダビデの子孫から生まれていくのです。その次のソロモン王も、次の王レハブアムも。このレハブアムという王の時にイスラエルが北と南に分かれてしまいます。ソロモンに仕えていたヤロブアムという人物が、ソロモンの息子レハブアムが王になる事が嫌で、反旗を翻し、エルサレムの北の地をまとめて自分が王になってしまったのです。南はユダとベニヤミンという地が残されました。この時に北イスラエル王国、とユダを中心にした国、南ユダ王国というふうに呼ばれたのです。その後にこの二つの国はどちらも滅ぼされていきます。それはもちろん神様への信仰を失ったからです。北イスラエルは721年に当時勢力を伸ばしていたアッスリヤ王国に。南ユダは562年にアッスリヤを飲み込んだバビロンに飲み込まれます。この時に国がめちゃくちゃになります。エルサレムの神殿も破壊されます。そして彼らは国を失います。イスラエルの地に住んでいた人の大半が土地を追われ捕囚されます。北イスラエルはそれ以降どうなったかはわかってはいません。でも南ユダ王国の民は捕囚の地からもう一度戻る事ができたのです。そしてエルサレムに神殿を立て直し、国をもう一度再建しようとしたのです。そしてこの時に南ユダの地方をユダヤ地方と呼ばれたのです。もちろんそこに住んでいた人達という事で現在の「ユダヤ人」という言葉にもつながっているわけです。

 

さて、もう一度なぜこのユダの話を38章に残したのかという疑問に返ります。それはこのユダという人物の子孫こそ、イスラエルを代表する部族になっていったからです。だからユダの経歴や歴史は必要だったのです。

聖書はきれい事だけを書き残している書物ではないのです!人の失敗や不信仰がたくさん載っています。それはなぜでしょう?人間は誰しも失敗するからです。でもその失敗を神様はいつも受け入れてくださり、神様に悔い改めるという事を通し、いつでも赦して下さる、という事です。

どうですか?ユダと皆さんを比べると、なんかまだ大丈夫かな!?なんて気がしてきませんか?聖書を読んでいくと様々な人が出てきます。彼らの成功のシーンもありますが、失敗するシーンも多々あるのです。でも神の赦す姿をとおして、ふところの大きな神様を目の当たりにするのです。

今日の箇所でもユダは最後は悔い改めているのです。創世記38:26「 ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女を、わが子シェラに与えなかった事によるものだ。」こうして彼は再び彼女を知ろうとはしなかった」とあります。これはユダの悔い改めの心を表しているところですね。彼女がこのような事をしたのも、私がこのような事をしてしまったのも、そもそもは自分の長男次男が亡くなった後に、タマルに三男を与えればよかったのだ。そのように悔い改めたのです。その後のユダは父や他の兄弟の元に戻ります。おそらく彼自身も信仰を取り戻したのでしょう。

私達の神様は私達がどんな間違いを犯したとしても、悔い改める事を通して、いつでも受け入れてくださる愛と赦しに満ちた方であるという事です。「赦す」という事は私達がした事を忘れ、期待してくれるという事です。私達に期待してくれるお方なのです。

 

そしてユダの子孫の偉大さは、それだけではありませんでした。ユダの家系を通して「神様はどれだけ私達を愛しているか」という事をお示しになったのです。もちろんそれは、私達の救い主イエス・キリストです。イエス・キリストのストーリーを記したのが新約聖書の最初の4巻マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書です。そのマタイの福音書では、まず始めに家系図が出てきます。ユダヤ人の家系において家系図はすごく重要なものでした。ですからイエス・キリストがどの家系から生まれたのか?という事を記しているのです。

マタイの福音書1章1節から3節「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟達が生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ」その後にマタイの福音書1章16節「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった」とあるのです。つまり、このユダの家系から救い主イエスがお生まれになったのです。これはどんな事を意味しているでしょう?実はタマルやユダだけではなく、このイエス・キリストの系図には問題を持った人物がもっといたのです。ラハブという人物が載っています。彼女は遊女でした。ダビデも殺人と姦淫の罪を犯しました。ここではすべて詳しくは触れませんが、完璧な人なんてこの家系にはいなかったんです。普通救い主が生まれるという家系を選ぶなら由緒正しき家系を選びませんか?でも神様はそのような家系を選ばずにあえてユダの家系を選ばれたのです。それはなぜでしょう?

イエス・キリストは偉大なお方のためにお生まれになって、偉大なるお方しか救わない!そのようなお方ではなかったからです。イエス・キリストがこの地上に来たのは罪人のためです。この地に仕えるために来られた、ともおっしゃいました。だから生まれた場所も、王室の一室ではなく、誰でもいるような、洞穴の家畜小屋で生まれたのです。この家系にいるような、例え罪を犯した者でさえも、 すべての人を受け入れ、そしてイエスキリストを信じる信仰により、その罪を赦してくださったのです。そして信じるすべての人に神との永遠の平和をお与えになったのです。

マタイの福音書9章12節13節「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」神は私達を愛するがゆえに御子をこの地に遣わし私達に永遠の平和の道を与えたのです。

 

元ヤクザの牧師先生で川口市の罪人の友・主イエス・キリスト教会を牧会しておられる、進藤龍也牧師という方がいらっしゃいます。この方は少し前に峰町キリスト教会にも来てくださった方です。この方のお証があるのでご紹介します。「刑務所で出会った救い主、イエス。キリスト」

私は現在、川口市で罪人の友・主イエス・キリスト教会で開拓伝道をしています。以前の私は前科7犯の元ヤクザで丸学歴も、手に職もありません。おまけに小指もありません。あってはならない前科と刺青があります。こんな私が、どこからどうやって救われたのかを証いたします。

18歳の時からやくざ一筋の人生の中で、10年後、組のナンバー2に出世したものの、覚醒剤の打ちすぎで組を破門になってしまいました。ヤクザになる。という事は、社会から信用を失っているという事。だからヤクザはヤクザの掟の中に生きるのですが、そのヤクザがヤクザから破門される。という事は生きる術を失うという事です。そんな中で逮捕された私にとっては、お先真っ暗。しかしこの出来事が救いの始まりでした。 刑務所のくら~い、くら~い独居房のなかで聖書と出会いました。人生をやり直したい。この一心で聖書を読みました。そこで旧約聖書のエゼキエル3311節に出会い、回心したのです。

エゼキエル33章11節 彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きる事を喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。かえってその悪人がその罪を悔い改めて生きるのをわたしは喜ぶ。立ち返れ!立ち返れ!お前の悪しき道から。イスラエルの家よ!(進藤龍也よ:)どうして、おまえは死んでもよいのだろうか。」自分の名前を呼ばれているような気がした。

この御言葉で私は、生まれて初めて悔い改めたのです。今までの自分勝手な生き方を恥じたのです!憎んだのです!私が悔い改めたから愛されたんじゃない!神様の愛を知って、生まれて初めて悔い改める事が出来たのです。

こんな私が救われたのだから、救われたのならばいかに生きるべきか!救われた者としての生き様が本当の証であると私は思います。分かりやすい罪人の代表として、ここに立って今死骸であった、ロバのあごの骨のような私であっても、イエス様の十字架と復活によって聖い者とされた。どんなハンデがあったって、イエス様によって用いられるようになったんです。ただいま、開拓伝道中ですが、教会を支えて下さる一人一人が本当の開拓者だと思います。感謝します」

進藤先生は「周りの方に見捨てられてしまった」と感じました。しかしイエス様だけは彼を離さなかったのですね~。私達の神様は、絶対に私達を諦めません!見捨てません!離れず、いつも共にいて期待してくださるお方です。愛で包んでくださるお方です。

 

 

このイエス・キリストの愛と救いを、今日もう一度思い起こしましょう。