2016年11月5日 創世記37章 「ヨセフの生涯を通じて①」

 秋も深まって 朝・晩 だいぶ冷え込むようになりました。今月に入り、男体山にも初雪が観測されました。

 先週、巷ではハロウィン騒ぎで、日本でもハロウィンで盛り上がるようになってきました。渋谷では年々大騒ぎですが、仮装出来るという事で何でもありの感覚になってしまいますし、人の心の奥にある、欲求やストレスを発散しているようで、あまりにもエスカレートするというこの世の中が怖くなります。

先日、用事があって電車に乗ってしましたら(大宮付近での事ですが)隣の席に座っていた20代の女子がおしゃべりしていました。「ねぇ、ハロウィンはどうやって過ごしたの?」「私は教会でハロィウィンパーティーがあったんだ」「え、教会?あ、彼氏がアメリカ人だしね~。なんだか教会は敷居が高いわ!だって、たいていみんなは『チンなむ~』だしね。でも教会でハロウィンとはびっくりだわ」「そうなの、きっとこの機会に教会に来てほしくて、企画しなんじゃない」隣で座っていた私は、思わず「す、すみません。ハロウィンをやってくれる教会はどこですか?わたし、クリスチャンなんですけどぉ、ハロウィンやってくれる教会は敷居が低いですね~!?」と声をかけてしまいました。すると、「敷居が高いわ」と言った女の子が「え、それって敷居が低いんですか?」とびっくりしていました。

  世俗的になったハロウィン、もともとはケルト民族の土着宗教を、11月1日を聖者の日Hallowとするカトリックがその前夜祭として容認しHalloweenとしたのが起源ですが、それをも神様は用いられるという事でしょうか!?

 

前回は大角先生より「エサウの誤算」と題して、エサウのように世俗的な物を愛するのではなく、大切な霊的視点を持ちながら、「信仰の継承を育めるように」と、御言葉を取り次いで頂きました。

 今日は、エサウの双子の兄弟であるヤコブの生涯、その息子達から神様がどのように祝福し、約束を立てて下さっているのかを見ていきたいと思います。

 

「これはヤコブの歴史である」と始まります。神の約束の継承がアブラハム、イサク、ヤコブと続いているという事ですが、37章以降最終章まで、次の38章を除いてはラケルとの間に生まれたヨセフの生涯についてです。

 ヨセフが17歳の時、ビルハの子であるダンとナフタリ、ジルパの子であるガド、アシェルと一緒にいて、羊飼いの見習いをしていました。正直者で正義感の強いヨセフは、兄達の事を父に報告というか、本人はそうとは思っていないのでしょうけれど、「お兄さん達が・・・していましたよ」と正直に話していたのです。お兄さん達としたら、告げ口をする、いわゆるウザイ存在の弟。その上、父ヤコブとしては心から愛していた妻ラケルとの間にやっと出来た待望の男の子、しかもその愛する妻ラケルはもうこの世にはいない、心を息子ヨセフに向けて、溺愛していた様子が3節で伺えます。ヤコブはどの息子達よりもヨセフを愛し、特別な袖つきの長服を作り着せていました。それがまた更に兄達の心穏やかでない理由となります。この袖つきの長服、ヘブル語では「ケトニム パスィム」といって、袖の長さが手の先まである服で長男の着る服です。父ヤコブとしては長男の権利を譲るのに12人から選ばなくてはならなかったのですが、すでにルベンは性的問題を起こして、長男の権利を受ける資格がなくなり、シメオンとレビはディナ事件の時に残虐な行為を引き起こし、ユダは霊的な堕落で継承権からはずれます。ビルハとジルパは側女ですから、彼女達から生まれた子供達には継承権はありません。したがって、ヤコブとしてはヨセフに長男の権利を譲ると決めていた事が、この袖つきの服で分かります。ですから4節にあるように、兄達は、父が兄弟達のだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話す事ができなかったのです。そんな中でヨセフは2つ夢をみます。そして彼はまだ判断が幼く、それを素直に言ったら兄達の反感が増す事など考えずに素直に家族に話します。7節「ねえ、聞いて。僕はこんな夢を見たんだ。みんなが畑で束をたばねていたら、僕の束がいきなり「すくっ」と立ち上がったんだ。それからどうなったと思う?兄さん達の束が回りに集まってきて、僕の束にお辞儀をするんだ」これを聞いた兄達はさらに反感を増しますよね。「なんて生意気な奴だ!自分が王になって、俺達がひれ伏すとでも言いたいのか!?」とヨセフがいっそう憎らしく思えてくるのです。

そしてヨセフはまたもうひとつ夢をみて、それについて話します。9節「太陽と月と11の星が、僕におじぎしたんだ」この夢を兄達だけでなく父ヤコブにも話し、ヤコブは兄達を配慮してヨセフをしかったのです。「いったいどういう事か!母さん達と兄さん達たけではなく、父親である私までがおまえにお辞儀するというのか!?」そう叱責しながらこの事を心に留めておきました。父ヤコブは、これは何かの啓示かもしれない・・・と感じるところがあったのでしょう。この事が実現するのは数十年後の事になりますが、その前にヨセフはこの夢の実現のために大変な目に遭うのです。

 

 ヤコブとヨセフは兄達がどれほどの憎しみと妬みを抱いているのか、理解していませんでした。兄達は、牧草の豊かにあるシェケムへ父の羊を飼うために出かけます。きっと予定より帰りが遅かったのでしょう、父ヤコブはヨセフに様子を見に行かせました。どのくらい離れた所なのか、14節に「こうして彼をヘブロンの谷から使いにやった」とありますから、シェケムまでは約80KMの距離、3、4日かかります。ヤコブがシェケムに着くと兄達は見当たらないので、野でさまよっていると、ひとりの人に出会い、兄達の行方を聞くと彼らはさらに北へ20KM離れたドタンという所にいました。そしてヨセフの姿が見えると露骨にも兄達は彼に殺意を示します。19節20節「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう」

ヨセフを殺したい最大の動機は、「ヨセフが見た夢の通りになって欲しくない、膝まづくなんて、もっての他だ!」という事でしょう。

そんな中にあっても、神のご介入があるのです。本来なら長男としての権利があってもおかしくないルベンに神が働かれ、21節「殺す事もないじゃないか!血を流すのはよくないよ。生きたまま井戸に投げ込んでおけばいいんだ。あいつに手を下すのは、やめよう!」

ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰してやれると思ったのです。そんな事とは知らないヨセフ、兄達を見つけて近寄ったら、いきなりヨセフの着ていた袖つきの上着をはぎ取って、彼を穴に投げ込んだのです。そして気分も晴れやかとばかりに食事をする。そしてふっと目を上げるとイシュマエル人がエジプトへ商売するために何人かのグループが、通りがかったのを見て、四男のユダが提案します。「イシュマエル人が来るから、ヨセフを売り飛ばすのはどうだろう。確かに気に入らない弟だけど、身内を殺すのはあまり気持ちの良いものでもないだろう」

この提案にみんな賛成して、そこにはなぜかルベンがいなかったのですが、ヨセフを穴から引き出して銀貨20枚で売り飛ばしたのです。そんな事になっているとは知らないルベンが穴に戻るともうそこにはヨセフがいない「しまった、あの子がいなくなってしまった。いったい私はどこに捜しにいったら良いのか!?」とショックのあまり服を引き裂き悲嘆したのです。他の兄達はどうしたかというと、はぎ取った上着に雄やぎを殺して上着をその血に浸けてあたかも野獣に襲われたかのようにして、父ヤコブのところに持って行き、見せてこう言いました。32節「この上着を野で見つけました。あなたの子の長服であるかどうか、お調べになってください」兄達は「弟ヨセフの長服」と言うのではなく「あなたの子の長服」となんとも嫌味な、当てつけがましい言い方をしたのです。

父ヤコブはその長服を手にとって何日も深く悲しむ様子を見ながら、息子、娘達は慰めますが、ヤコブは慰められる事を拒み「ああ、ヨセフ。我が愛する息子。かわいそうに、獣の餌食になるなんて。私が悪かった。おまえを一人で出したのがいけなかった。ゆるしておくれ、私はおまえのいる黄泉に下っておまえといっしょにいたいくらいだ」と嘆き続けたのです。

この時ヤコブには、神を信じる者が天国に行くという信仰はなかったのです。つまり死後に復活して再会できるという信仰はなかったのです。だから悲しみました。人間の死の向こうに復活があるという信仰がないという時は悲しみがあるだけです。死の向こうにある復活の命、永遠を生きる命を信じる事で希望があるのです。

あまりにも嘆き悲しむ父の姿を見ながら、事の次第を知っている息子達にとって、父ヤコブの姿はどう映ったのでしょうか? 予想以上の悲しみ方で驚いたのでしょう。だから慰めようとしたのです。その息子、娘達の気持ちを察する事が出来ないほどに、ヨセフに対しての父ヤコブがとった偏った愛し方が原因だったと気が付かない。 かつてアブラハムが神の祝福と奇跡によって与えられたイサクを捧げたように、イサクがヤコブを手放したように、ヤコブもヨセフに対してしっかりとした愛をもって親離れするべきでした。

 

 私達が神からの祝福を受けるとき、手放さなくてはならないものがあるかもしれません。

神の声に従って、そう出来るようにしたいと思います。

 

 一方イシュマエル人であるミデヤン人に売られたヨセフはどうなったのか・・・。

36節を見るとエジプトでパロの廷臣であり侍従長ポティファルに売られたのです。こうしてヨセフは神のご介入によって一度は穴で死んだも同然でしたが、命救われ、これから神のご計画の通りに進んでいくのです。

 

 このヨセフの物語は、イエス・キリストのひな型・予表ともいわれています。

父の最愛の息子であった事、イエスキリストは神のその独り子である事に通じます。

そしてヨセフが兄達から疎まれ穴に投げ込まれたように、イエス様も辱めを受け、十字架に付けられました。そして後にヨセフが売られた先のエジプトで、今で言う首相になったように、イエス様は王の王であられるお方なのです。

 

 37章の聖書箇所を私達の人生に当てはめてみましょう。私達の人生には理解できない悪い事が起きます。しかし、神を信じる者に、神は全ての事を働いて益としてくださるのです。

-マ人への手紙8章28節「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださる事を、私達は知っています」

 

 アメリカに実際にあったお話しです。アメリカのアラバマ州南部の地域では、綿花を栽培し、年に一度だけ収穫する事が、長年に渡るここでの習慣でした。できるだけ広い面積を耕し、そこで綿花を栽培する。来る年も来る年も、その繰り返しでした。

 ところがある年に、綿花を食いつぶすコクゾウムシの被害で、その年の綿花が壊滅状態になってしまったのです。翌年に農夫達は自宅を抵当に入れ、再び綿花栽培に取り組みました。ところがその年も、あの害虫が綿花に取り付き、甚大な被害が起きてしまったのです。3年目になってコクゾウムシの被害を何とか乗り越えた数人の農夫達が、新しい作物を実験的に植えてみようと相談したのです。採用されたのはピーナッツでした。その年にピーナッツは大豊作となった。しかも綿花よりも高収入を得たのです。この試みに参加した農夫達は、この年に過去2年に渡る借金を返済する事が出来ました。

 その後、この地域では毎年ピーナッツを栽培するようになり、この地区全体としてピーナッツは膨大な富をもたらしたのです。面白いのは、その後、農夫達が何をしたかです。彼らは手にした富の一部で街の中央広場に「コクゾウムシ」記念像を建てました。

 災害でさえも時に大きな喜びに変えられる事があるのです。神を信じる者に、神は全ての事を働いて益としてくださると聖書の言葉は私達を励ましてくれるのです。

詩篇50篇15節「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」

 このように、まことの神を呼び求めると、それにこたえて下さる全能の神が私達と共におられるのです。

 

 最後にクリスチャンの方を紹介します。松本望さんです。彼は、音響で有名な株式会社パイオニアの創立者です。彼は、1905年(明治38)松本勇治牧師の次男として神戸で生まれました。

松本望さんは父親の松本勇治さんから大きな影響を与えられたと述べていますので、お父様の事を先に紹介します。父勇治さんの生れた時の名字は「片柳」でした。今の栃木市沼和田にある片柳家に生まれたのですが、分家の松本家に子供がいなかった為に養子となり、松本姓になりました。養父が函館で漁業を営んでいたので、彼は函館商業を卒業後、貿易商を夢みてアメリカに渡りました。そこで熱烈なクリスチャンであった後に外務大臣になる松岡洋右さんに会いました。その強い影響を受け、聖書の研究に没入し、クリスチャンとなりました。貿易商になるどころか熱心な牧師になった彼は、アメリカにおいても伝道に命をかけました。その後、養父の家がある栃木に帰ってきましたが、即座に養父から「耶蘇バカ」と反対され、勘当されてしまいました。それでも栃木で伝道しました。その時の生活は貧しかったようです。その後、役場の書記をしていた菊池ケイという女性を見染め結婚しました。その新婚旅行でさえ徒歩による伝道旅行で群馬の桐生市から足利市だったそうです。その「耶蘇バカ夫婦」の次男として、松本望さんが生まれました。「私は父の信仰をそのまま受け継いだ」という事を自伝に書いておられます。

松本望さんが生まれた時 (明治38年5月)には、家族は神戸市三ノ宮に移っていました。神戸に移り住んでからは松本牧師の家はそんなに貧しい状態ではなくなったようです。

しかし父勇治は、子供達に「幼いときから勤労の精神を養っておかねばならない」と、小学3年生の頃から新聞配達、夜は床屋の見習い、牛乳配達と仕事をするように申し渡し、仕事の責任を教えたそうです。やがて望さんはラジオの製作会社に入社し、10年務めました。望さんにとって父の松本勇治牧師の影響が大きく、松本勇治牧師が洗礼を授けた人達の中には、やがて聖書学者となる黒田幸吉さんや東大総長となる矢内原忠雄さんがいました。そういう意味でも、望さんのお父様は日本のキリスト教歴史にも大きく貢献した人物なのです。

望さんがラジオ製作会社に勤めて10年目ぐらいの時に、あるキリスト教関係の団体から「あなたの人柄を見込んで、独立資金を援助しましょう」と支援の話があり、独立を決意し、会社名を「福音電機製作所」と新しいスタートをしたのが昭和12年の事です。福音とは「キリストのよき知らせ」の事であると同時に、音を通して世に貢献するという決意が込められていたそうです。その2年後東京に進出し、「福音電機製作所」の看板を掲げましたが、実際は奥さんが機械のコイルを巻くという家内工業的なものでした。その10年後の昭和22年には、さらに会社は拡大を続け「福音電機製作所」の名前を変え「福音電気会社」となりました。さらに発展を続け、昭和36年に社名を現代の「パイオニア株式会社」と命名しました。

パイオニアの社名のように、望さんは音の分野の開拓者である事を社訓のひとつとしてしました。1994年7月15日、83歳で召天しました。松本家のお墓には『されど、われわれの国籍は、天にあり』という聖書の御言が刻まれています。

 

 ヤコブはいなくなったヨセフをいつまでも思い嘆き悲しみましたが、私達はそうではなく天国に希望を抱く信仰を持ち続けたいと思います。