2017年1月14日創世記43:1-15「主の前に進んで行く」

新年が明けて2週間が過ぎました。この1年、健康で過ごせることが一番ですが、肉体の健康はもちろんの事、心も、霊的にも健やかである事を願います。

主なる神は私達に最善のご計画を、それも祝福の計画を持っておられます。エレミヤ書29章11節「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」私たちのすべきことは、ただ、神様について行くことだけです。神様に従って行くならば、必ず恵みと祝福が追いかけてきます。自分勝手に歩むことで、神様の祝福を上手にすり抜けていく人にはならないで、神様は大いなる祝福をもって導いてくださるお方だと証しできるようになりたいと思います。

 

その秘訣を今日の聖書箇所から学びたいと思います。

 状況はエジプトから買ってきた食糧も底をつくほどに飢饉がひどいものでした。父イスラエルにとって最愛の息子ヨセフもいない、その上シメオンも取られてしまっている、その上末の息子ベニヤミンさえ取り上げられるかもしれない・・・という不安を抱えながらも、父イスラエルは息子達に「もう一度エジプトに行って食糧を買ってきて欲しい」と頼みます。そこで、ユダは食糧危機と共に、家族の危機である深刻さを父イスラエルに訴えているところです。「今、エジプトに行かなければ家族が、親族が、そしてエジプトに同行させるか迷っているベニヤミンも含めて、飢え死にしてしまう。心をきめてください」と訴えました。躊躇している父イスラエルの心を動かし決断に導いたのは、8節、9節で言ったユダの言葉でした「あの子を私といっしょにやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります」ユダは自分の命を張ってでも一緒に連れていくベニヤミンを助け出す、責任を負うと断言したのです。

かつてのユダは「ヨセフを亡き者とするために売り飛ばしてしまおう」と提案した人物ですが、自分のしてしまった事の重大さを自覚し、もしベニヤミンやシメオンを助けるのに失敗したら、その全責任は自分が負うと覚悟しての申し出でした。

 このユダの言葉と救い主イエス様が私達を神様からずれているための魂の飢餓状態から救うために身代わりに十字架に掛かられ、全責任を負った事と重なりませか?

 ルカの福音書23章34節イエス様の十字架上での言葉のひとつ「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです」イエス様が全責任をもって私達を罪から救い解放するため負ってくださった十字架の愛です。

この言葉から信仰に導かれた方を紹介します。真珠湾攻撃の実行部隊の総隊長であり後に信仰に導かれた淵田美津雄さんです。

戦後、アメリカに対する反感と憎悪を捨て切れずにいた淵田さんは、ある日、アメリカから送還されて帰って来た日本軍捕虜から次のような話を聞きました。この人が収容されていたキャンプに、いつのころからか、一人のアメリカ人のお嬢さんが現れるようになって、いろいろと日本軍捕虜に親切を尽くしてくれたのです。病人への看護などのケアをし出して、二週間たち、三週間と経過し、このお嬢さんの行為が純粋なものだと感じたという事でした。捕虜の全員はしだいに心を打たれて「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくださるのですか」と尋ねると彼女は初め返事をしぶっていましたが、皆があまり問いつめるので彼女はこう答えました「私の両親が日本軍の兵士によって殺されましたから・・・」両親が日本軍の兵士によって殺されたから日本軍捕虜に親切にしてやるというのでそれを聞いた日本人捕虜の人たちはとても驚きました。このお嬢さんの名前はマーガレット・コヴェルさんで彼女の両親コヴェル夫妻は日本に遣わされていた宣教師でした。しかし、日米開戦によって身に危険が迫ったため、引き揚げ勧告に従ってマニラに移りました。やがて日本がフィリピンを占領したので、難を避けて山中に隠れていましたが、その3年後、アメリカ軍が逆上陸し、日本軍は山中に追い込まれて来ました。ある日、そのコベル夫妻の隠れ家が発見されて、日本軍はこの両親をスパイだと一方的に決め付けて斬首してしまいました。この時コヴェル宣教師夫妻は、聖書を開いて、祈りつつ死んでいったそうです。

やがてこの事がアメリカにいたマーガレットさんのもとに伝えられました。マーガレットさんは残忍な日本兵に対する憎しみと怒りに胸が張り裂ける思いに捕らわれましたが、しばらく経って両親が殺される前にささげた祈りはどのような祈りであったかと思い巡らすと「憎しみから赦したい」という思いに変えられ、両親の志を継いで、日本人にキリストを伝えたいと言う思いに導かれたそうです。

淵田さんはその話を聞きましたが、その時は未だよく理解できませんでした。しかし、この話はその後も淵田さんの心にずっと残り、特に、殺される前の宣教師夫妻の最後の祈りがどのような祈りであったのか、ずっと気になっていました。しばらくして淵田さんは思い立って、聖書を買い求めて読み始めてからしばらくたってルカの福音書23章34節の御言葉に出会いました。「父よ、彼らを赦したまえ、その為す所を知らざればなり」この御言葉を読んで、淵田さんはマーガレットさんの話が心によぎり「あぁ、分かった。コヴェル宣教師夫妻の最後の祈りはこの祈りであったに違いない。『天の父なる神様、今、日本兵が私たちを殺そうとして日本刀を振り上げていますが、この人たちを赦してあげてください。この人たちは何をしているか分からずにいるのです』コヴェル宣教師夫妻はこのように祈ったに違いない」と分かった瞬間、淵田さんの目から涙が溢れました。その時、淵田さんは信仰をもったそうです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。

主イエスは、十字架に架けられ、極限の苦しみ中で、自分を殺そうとする者たちの救いのために、力を振り絞って、父なる神様に執り成しの祈りをささげられました。その祈りがあるからこそ、私達はここにいるのです。魂の飢餓状態から救われているのです。なんという愛、恵みでしょうか!

 

 「ヨセフを売り飛ばしてしまえ」と言っていたユダも神に取り扱われ変えられていったのです。今日の聖書箇所にもどりますが、10節のユダの言葉「もし私たちがためらっていなかったなら、今までに二度は行って帰って来られたことでしょう」ユダは父イスラエルに「もたもたしている場合ではありません」と促しました。神の時があります。同時にその時を逃すのはもったいないと思います。神の時だとわかったら躊躇する事なく信仰をもって行動を起こすことも大切です。

その神の時を知る事を考えると、サーフィンに似ていると思います。2020年のオリンピックの種目にサーフィンがありますが、ハワイやオーストラリアと違って、日本で種目になるほどの良い波が来るとは思えないですが・・・。サーフィンの上手な人の秘訣は、パドリングに芯がある、いくら漕いでもブレない、波のタイミングを知っている、助走も十分、加速させる方向もバッチリで、自分の筋肉をフルに使うのではなく、重力と水力に身を委ねる事だそうです。私達の信仰も、神の時を知って行動するのも、いつもイエス様に目を向けてブレない、そしてイエス様に信頼して歩む経験の中で神の時を知っていく。そのために日々の祈り、礼拝によって助走が十分について、神様と共に歩む方向もバッチリ。という事でしょう。

 父イスラエルは息子ユダの提案を受け入れて準備をしました。まずエジプトへの手土産としてイスラエルの名産でなかなか手に入らないものと、銀貨を以前の2倍と返された銀貨を持たせるようにしました。その行為は礼儀と心遣いを示すという事でしょう。

14節には父イスラエルの祈りと信仰が書かれています。「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ」

この言葉は私達が神の祝福を受ける秘訣を教えています。父イスラエルは全能の神に信頼して大切なものを明け渡すという心の態度です。神の祝福を受けるために、私達は抱えているものを手放す必要があるのです。

 

旧約聖書にヨブという人がいます。ヨブはある日、突然、自分の財産のすべてが奪われ、また家族のすべてを失うという経験をしました。しかし、この時ヨブは「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と言いました。ヨブは、一切を失ったとき、全ては神が与え、また神が取られたのだ、だから、神のみ名を賛美します、褒め称えます。と告白しました。ヨブは主の前に取り繕うのではなく、心を明け渡し、いろいろといらないアドバイスをした友達の事も祈り「主によって良し」とされ、失った物以上に祝福された人物です。

マルコの福音書10章17節から31節には「どうしたら永遠の命が手に入るのでしょうか」とイエス様に質問したお金持ちの青年の話しが書かれています。イエス様の答えは「律法を全て守っているというなら、持っている全財産を売り払って貧しい人に与えなさい。そうすれば天に宝を積む事になります。その上でわたしについて来なさい」という事でした。それを聞いたお金持ち青年は顔を曇らせ、悲しみながら去っていきました。永遠の命、神の祝福を受けるのは、この青年のように教えを立派に守っているという事ではなく、神に信頼し、神を第1として、イエス様こそ私の人生の主とする事だと教えているのです。

マタイの福音書6章31節から33節でイエス様はこうもおっしゃいました「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」

神の国とその義を第1に求めるとは、神のご支配の中を生きる事を喜び、御心を求め、それに従って歩めば、いろいろな事にさらに付け加えて与えられる事を信じなさい、と教えているのです。

 

今日の聖書箇所15節をご覧ください「この人たちは贈り物を携え、それに二倍の銀を持ち、ベニヤミンを伴ってエジプトへ下り、ヨセフの前に立った」準備万端整え、祈りと信仰を携えて、いざエジプトへと立ち上がったイスラエルの息子達です。

私達もそのようにこの新しい年を、祈りと信仰をしっかりもって、神の祝福と恵みを受け取りつつ、おひとりおひとりが、そしてこのかぬまプレイズチャーチが、主なる神がどれほどの良いお方であるかを証し出来る、心の一致をもって信仰の成長の年であるように願います。

祈り・・・

 

「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」とパウロがすすめているように、新しい年に神の御心を求め、それに従って歩むとき神が大いなる祝福を与えて下さると信じ歩みたいと思いますので、主よ、よろしくお願いします。

今年一年、どんな年になるのか、主よ、あなたに期待します。