2016年4月30日創世記18:16-33「とりなしの祈り」

 

この礼拝が、神様に心を向けるこの時が、自分を取り戻す時間となれば幸いです。

ちょっと立ち止まって、日々の生活や人生の歩みを振り返る時、神の恵みを味わうひとときが必要ではないでしょうか? 私たちは毎日忙しく生活しています。仕事をし、家事をし、学生は勉強し、良い職業に就くため努力をしています。それは何のためでしょうか?

より良い暮らしのためでしょう。しかしそれは一瞬に消えてしまう事もあるかもしれません。

プロペラ機でニューヨーク・パリ間を初めて単独で飛行したリンドバーグの奥さんのアン・リンドバーグも、またパイロットであり、作家であり、社会学者でもあり、6人の子どもの母親でもありました。しかし、55歳になった時、ふっと立ち止まって「私のこれまでの人生は外にばかり目を向けて来た、これからは内に目を向けるべきだ」と思ったのです。彼女は、2週間の休暇を取り、一人海に行きます。毎日、海岸を歩きながら瞑想し、「海からの贈り物」という本を書きました。その本の中で「教会の礼拝の中で神との対話を通して人は自分を取り戻し、心の泉に再び水を湧かせる」と言っています。忙しい日々の中、一週間に1度の礼拝の中で祈る事を通して、人は内なる自分を取り戻していくのです。

 

今日の箇所はアブラハムが主なる神と共に歩み、主なる神の声を聞いて執成しをする所から学んでいきたいと思います。

アブラハムとサラの所に突然訪問した3人の旅人の格好をした主なる神と2人の御使い達が、今度はソドムを見下ろすほうへ上って行きました。

アブラハムは天幕の入り口で見送る事もできたでしょう。けれどわざわざついていったのです。心情としては「来年の今頃、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラに男の子ができている」と告げられたので、ついていけばもっと何か言葉が与えられる、と思ったのかもしれません。

アブラハムが付いて行くと、面白いことに主なる神はこう考えられたのです。17節から19節ですが、まず17節の「私がしようとしている事を、アブラハムに隠しておくべきだろうか?」とお考えになったのです。アブラハムを主のしもべとしてだけでなく、主の友として考えてくださり、主の御心を示されたのです。旧約聖書の中のアモス書3章7節「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない」と言われています。

イエス様を信じている私達も、主イエス様に「友」と呼ばれています。ですから、神の御心が示されているのです。ヨハネの福音書15章13節から14節「人(イエス様)が友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。私があなたがたに命じることをあなたがたがおこなうなら、あなたがたは私の友です」主イエス様が私達に命じていらっしゃることは何でしょうか?

ヨハネの福音書15章16節、17節には、こう書かれています。イエス様が私達を選び任命しくださり、行って実を結び、その実が残るためであり、また、私達がイエス様の名によって天の父なる神に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるために、選んでくださいました。互いに愛し合う事が、イエス様の教える新しい戒めです。 

主なる神はアブラハムに御心を示された目的は、主の御計画を知らせ、その計画の中で彼を用いようとされたのです。理由は、18節19節「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地の全ての国々は、彼によって祝福される。私が彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の家族と命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主がアブラハムについて約束した事を、彼の上に成就するためである」主なる神のアブラハムに対する思いを、イエス様を信じてアブラハムの霊的な子孫とされた私達にあてはめると、私達が祝福の基とされ、その祝福を他の人達と分かち合いイエス様の救いを証しし教会を建て上げていく事を担う者となるように、と神は願われているのです。

 アブラハムに主なる神は20節21節でご計画を示されます。「ソドムとゴモラの罪は非常に重く、放置する事は出来ないから、その実態を見に行き、その罪を裁く」というご計画でした。それを聞いたアブラハムは、主の前に立ち、ソドムとゴモラのために必死に執り成しの祈りをします。23節「あなたは本当に、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか?」と主なる神が義なる神であり、公正なお方である事を根拠に、アブラハムは申し出ます。そして神の憐れみに訴え、交渉していきます。

滅ぼそうとされている町に、もし50人の正しい者がいたら、その町をお赦しください。と訴え、神はそれを聞き入れてくださいました。すると、アブラハムは更に身を低くして「私は神によって造られた者、ちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」と訴えます。50人ではなく、40人いたら、赦してくださいませんか?

いや、30人、いや20人、最後のお願いです。せめて10人、10人いたら、赦してください。と値切りに値切って、神の憐れみに訴えます。アブラハムが必死に訴え、交渉し、執り成しているには理由がありました。息子同様に愛していた甥のロトとロトの家族がその町に住んでいるのです。せめて、ロトの家族だけでも救ってください、と必死な姿は、 

まだ救われていな人達のために、執り成してくださっていますイエス様のお姿そのものです。ローマ人への手紙、8章34節「よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私達のために執り成してくださるのです。」ひとりでも滅びる事がないようにと、愛と忍耐をもって、執り成してくださっています。私達が生かされている今の時代の世の中は、まさにソドムとゴモラ町のようになっています。富に溢れ、不道徳、特に同性愛が蔓延し、神を恐れる事なくなった町ソドムとゴモラの町のようになっていると思いませんか?

初めに神が天と地を造られ全てを喜ばれ、人を神の形に似せ造られたとき、非常に良かったと喜ばれた神が、ノアの時代と同様に、神から離れ、罪に溺れる人達をご覧になって、悲しまれていらっしゃるのです。ペテロの手紙第2の3章7節「今の天と地は、おなじ御言葉によって、火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どもの裁きと滅びと日まで、保たれているのです。」9節「主は、ある人が遅いと思っているように、その約束の事を遅らせておられるわけではありません。かえってあなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びる事を望まず、すべての人が悔い改めに進む事を望んでおられるのです。」

ルカの福音書13章5節でイエス様は「あなたがたも悔い改めないなら、(イエス様を救い主と信じることなく、また心を天の父なる神様に向けずにいたら)、滅びます」とおっしゃいました。その続きとしてイエスは次のようにたとえを話された。ルカの福音書13章6節から9節「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください』

ぶどう園の番人は、イエス様です。いちじくの実をとりにきた人ぶどう園の持ち主は、天の父なる神です。「実がならないならこのいちじくの木を切ってしまいなさい!」という主人に、もうちょっと待ってください、とイエス様は執り成してくださっているのです。ぶどう園はこの世界、いちじくはイスラエルを象徴していますが、異邦人である私達にも当てはまります。私達は、そのようにしてイエス様によって、あり得ないほどの愛を注がれ、悔い改めるように、神さまの所に立ち帰るように、神を信じるように、神に従うように導かれているということです。

「ひとりでも滅びる事がないようにと、愛と忍耐をもって、執り成してくださっています」と、先ほども申し上げました神は、ひとり子をさえ惜しまず 与えるほどに、私達ひとりひとりを愛してくださっています。 それは、神の御子を信じる者が、だれ一人 滅びず、永遠のいのちを得るためです。 とヨハネの福音書3章16節にある通りです。

もし、この地上に人間がたった一人だけしか存在しなかったとしても、神はイエス様をこの地上に送られ、イエス様が十字架について罪贖い、そして蘇られたのです。

 

最後にクリスチャンの方を紹介します。料理研究家の小林カツ代さんです。

彼女は大阪生まれ。食の仕事を中心に、TV・ラジオ・新聞・雑誌など多方面で活躍し、生活に視点をおいた姿勢が多くの人に、今でも支持されてします。彼女のモットーは「よりおいしく、より手早く」です。「台所で包丁を握り、まな板に向かうと、神様を感じる」とカツ代さんは言います。「野菜の美しさ、人間が作ったように見えて実は自然をつかさどる大いなる力によって作り出される食材、それらをすべて神様からの賜物なので、心を込め、感謝を込め、腕をふるい、おいしく作らなくては!」と思うのだそうです。

料理研究家として彼女は年子の2人のお子さんを抱え、仕事を続けました。子供をもって、こういうものを食べさせた方がいいな、これは良くないなと思うことがたくさん見えてきたので「ほら10分で、いや5分でもこんなにおいしものができちゃうのよ」「子供がいてあなたも忙しいでしょう。それでもこんなにおいしいものができちゃうのよ」と皆に教え続けていました。

そういうカツ代さんは、最初から料理研究家になりたかった訳ではないそうです。

小さな頃は小説家になりたいと夢見て本ばかり読み、次は漫画家になりたいと勉強もせず、絵ばかり描いていました。美大に入ろうとしていましたが、文学も良いなあと国文科に入学。大学3年で結婚。とにかく、『パッと思ったら、パッと行動する人』です。

そんな彼女が尊敬しているのが、彼女のお母さんだそうです。とても民主的な開放的で自由な思想を持つ明治生まれのお母さんは「カツ代ちゃん、あなたが好きな道にいきなさい。あなたが好きなことをしなさい。それが一番良いのだから。」と言っていたそうです。野球をしようと何をしようと、お料理もしなければしなくていいし、女の子だからとかは一言も言われずに育った訳です。結婚するまで、だしの取り方も知らなかったというのですから、驚きです。そして彼女が特に母親に感謝していることは、世間体とか学歴とか差別といった一切のしばりがなく、心がいつも自由でいられたこと。いつも絶対的な味方でいてくれた事だそうです。カツ代さんのお母さんは、クモの巣を見て喜ぶような人だったそうです。「カツ代ちゃん、見て。きれいやね。何で、こんなきれいなおうち、作れるのかな。」といつまでも見ている。だからカツ代さんも、クモが嫌いとか、気持ち悪いなんて全く思わず育ったのです。「とにかく何かをやりたいと思ったら、ためらわずにすぐやる。失敗したら、すぐ止めればいい。自分が責任を持とうと思えば、どんなことでもできる」とカツ代さんは50代でアメリカに一人で行き、2ヶ月間滞在しました。その時、娘が高校3年生、息子が高校2年生。友人には「こんな大事な時によく行けるわね」と言われたそうですが、寛大なご主人に支えられて実現した短期留学。そこで学んだ事のひとつに「すべての物を大切に扱うという事」アメリカのホームステイ先のホストマザーが食べ物を捨てない事に、気づきました。例えば乾燥して黄色くなったセロリの葉や、カサカサになった細い茎までみんな刻んで使う。レタスも紫キャベツも、日本なら外側の葉は必ず捨てる人が多いのに、捨てずに使う。料理教室でもブロッコリーの茎も、皮をむいて輪切りにして全部食べる。コーヒーがたった一杯分残れば先生が生徒に声をかける、それに応えて空き瓶に入れて持ち帰る人がいる。そこでカツ代さんは「食べ物は神様からの賜物」なのだと認識するのです。ケチなのではなく、物を大切にし、材料を無駄なく使うことの大切さを痛感、同時に「捨てる時はどういう時なのか」を考えたり、農薬や放射能、私たちがスーパーでもらうビニール袋、プラスチック容器、発砲スチロールのパックなどについてなど環境へも問題意識を持っておられました。カツ代さんは言います。「好きなことをやっているうち、次から次へと興味が広がり、すべてが心の引き出しに入って何一つ捨てるものがありません。辛い事も好きな事になると思って耐えられるのです。それに物の見方を変えるだけで、嫌なことも良い方に見えます。我が家には親子のカラスが来て、親がいつも子に餌をあげています。とてもほほえましく、見ている私も優しい気持ちになります。一方で、カラスはゴミを荒らす憎たらしい存在としか見ない人もいます。私はゴミを荒らすほどお腹が空いているなら、私が餌をあげようと思います。そのように2つの見方、生き方があるのですよ。」

カツ代さんの書かれた本「光の中の食卓」には「信仰のうすき私のような人間が、聖書のとりこになったのは、聖書のことばがどう生きよと諭すだけのものと読み過ごしてきましたが、どう生きよ、だけでなく、どう暮らし、どう食べるのかといった実に生活に根ざした書物であると気づき、生活者の視点から読むと、本当に面白くて、教えられる事がたくさんあります。イエス様は多くのたとえ話しをされました。生活に根差した視点、小さなものにまで目を留め、語られるお姿に感動します。イエス様は神の子であったと同時に

肉体をもったひとりの人間としてとても魅力あふれるお方です。」と書かれています。

命にかかわる「食」の大切さに心をとめ、神様が与えて下さる食べ物や動物や植物に感謝し、そして人を愛し、どんな時でも幸福感を感じながら生きているカツ代さん。何かをしようと思うこと、そしてすること、その大切さと元気をカツ代さんから教えられたように思います。

 カツ代さんは2年前2014年1月に天に召されましたが、天国でも料理教室やらなにやらと、にぎやかにされている事でしょう。

 

 今日の聖書箇所から、アブラハムが神に執り成しの祈りをしたように、誰かが皆さんの事を祈っていたでしょうし、祈っているはずです。そして救われている私達は、愛する家族や友人、これから出会う人達や、見知らぬ人のために祈る事ができます。

誰よりも、イエス様が祈ってくださっているのです。

 

 私達も、いつ、イエス様がこの地上に来られても大丈夫なように、あきらめずに祈り続けましょう。