2016年12月17日創世記42:1-28「ヨセフの生涯⑥神の良くしてくださった事を思う」

 

今年もあとわずかです。今日のタイトルは「神の良くしてくださった事を思う」です。神の恵みを数えつつ、また自分を省みてどのような信仰の歩みが出来たのか、それを踏まえて新年に向けてのビジョンを求めたいと思います。

詩篇の第1篇1節から3節は、幸いな人はどういう人かと書いています。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかったその人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」

ずっとヨセフの生涯をみてきていますが、主により頼む人生を送ってきたヨセフはまさに主のおしえを口ずさみ、何をしても栄えた人となっていきまいた。

ヨセフの人生シリーズ六回目、前回からの続きです。41章56節57節にあるように「飢饉は全世界におよび、その飢饉が全世界でひどくなった」のでエジプト内だけではなく、世界中の人が食料を求めてエジプトのヨセフの所に来たのです。そして、故郷カナンの地からヨセフの家族もエジプトへ助けを求めて来るところが、今日の箇所です。

 

 主なる神様は、「飢饉」という苦難を通じてその御業を成し遂げます。ヨセフの生涯をここまで見ていくと、苦難の連続でした。それでもヨセフは信仰を捨てず、いやむしろその信仰を強め、主なる神様に仕えていきました。そして今、エジプトの総理大臣(首相)として用いられているのです。いつも神への賛美があったヨセフ。新約聖書に出てくる使徒パウロはローマ人への手紙11章33節でこのように主を賛美し主なる神は大いなるお方であると言っています。「神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう」。

 私達は今日もこうして集まり、主を賛美し感謝をもって礼拝しています。詩篇の中でダビデは繰り返し「主をほめたたえよ」と勧めています。「たたえよ」とは英語でマグニティと言います。意味は大きく拡大すると言います。虫眼鏡をマグニファイイング グラスと言いますが、私達が主を褒めたたえよというのは、主なる神を知り、主の偉大さ、雄大さを知り、同時に私達の生活の中の細かい所に至るまで働いてくださっている事を思う時、主のすばらしさを知って「神様、あなたは素晴らしお方です」と言えるのです。

ヨセフもまさにそのような信仰をもっていました。

  では42章を見ていきましょう。カナンの地で、息子ヨセフは死んだのだと嘆き悲しみ、失望の中にいた父ヤコブ、それから22年の時が経ちました。飢饉という苦難に直面し、ヤコブは息子達にエジプトへ行って穀物を買うように命じました。しかし末の息子ベニヤミンは生かせませんでした。なぜなら最愛の妻ラケルとの間にできたヨセフを失った上にベニヤミンまで失いたくない、という思いがあったからです。

 神の視点から見たこの「飢饉」という試練の目的はなんでしょうか?それは、もっとイエス様に近づくため、信仰を強めるため、希望を天国に持つためです。神が私達を引き寄せてくださるのです。

 

 5節を見るとヤコブの息子達はただ食料を求めて、言われた通りに、また他の人達と同じようにエジプトへ向かったという事がわかります。そしてヨセフの前に来て、慣習にしたがって顔を地につけて伏し拝みました。ヨセフはすぐに兄達だとわかりましたが、兄達はヨセフだとはわかりませんでした。ヨセフはわざわざ通訳者を立てて身分を明かさないようにし、特に荒々しい口調で兄達を試したのです。なぜなら、9節にあるようにヨセフがかつて見た夢を思い出し、そして兄達の心が変えられているのか、ヨセフに対して犯した罪を自覚し悔いているのか、父や弟がどうなっているのか様子を確かめたかったのです。

 そこで、ヨセフは兄達をスパイ呼ばわりしましたが、兄達はその事を否定しました。しかし末の弟ベニヤミンを連れて来ない限りここから出る事は出来ないと言ったのです。そのことが9節から20節です。それはヨセフが「ここぞとばかりの復讐心」から言ったことではなく、兄達を悔い改めに導くため、ヨセフの兄弟を、家族を思う愛の心からなのです。

第1コリント13章、14章は神の愛とその愛に基づいて御霊の賜物を生かすのかを、私達に教えてくれる聖書の箇所です。すべてにおいて愛がなかったら意味がないと教えています。その愛とはなんでしょうか?

第1コリント13章4節から8節「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません」これが神の愛です。私達にはこの愛は自分では育めません。この神の愛を受け取り、キリストに従う者として変えていただくために、日々の聖霊様との交わり、日々の礼拝、祈りがあるのです。

 

 兄達は少しずつ自分の罪を自覚し始めました。21節、22節「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ」

ヨセフはそれを聞きながら、兄達にはわからないように泣きました。

 

私達が罪を告白し、心から天の父なる神様に立ち返る時、天の父なる神は私達の罪を赦してくださるのです。以前にもお話ししましたが、神の赦しとは「もうなかったことにされる、無罪である」という事です。

私達もクリスマスの時期だからこそ、誰かと和解したい、神と和解したいと思ったら

それを実行する最善のタイミングだと思います。

 マタイの福音書5章22節から25節でイエス様はこうおっしゃいました。リビングバイブル訳で紹介します。「人に腹を立てるなら、たとえ相手が自分の家族であっても、裁判にかけられます。人をばか呼ばわりするなら、裁判所に引っぱり出されます。人をのろったりするなら、地獄の火に投げ込まれます。ですから、神殿の祭壇に供え物をささげようとしている時、人に恨まれていることを思い出したら、供え物はそのままにして、相手に会ってあやまり、仲直りをしなさい。神に供え物をささげるのはそのあとにしなさい。あなたを告訴する人と、一刻も早く和解しなさい」

 イエス様は私達人間と神様を和解させるためになだめの供え物として、クリスマスの時に来てくださいました。ヨハネ第一の手紙4章10節 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」

では、「なだめの供え物」とは何でしょうか? 「なだめる」という表現は、「機嫌をとる、怒りを静める」という意味を持っています。「神をなだめる」という表現は腑に落ちないという方がいらっしゃるかもしれません。愛である神様がなぜ怒るのでしょうか。神様の機嫌をとる必要などあるのでしょうか。確かに聖書には神の怒りが表わされていますが、それは人の罪に対する「聖なる怒り」です。人を深く愛する神ゆえの悲しみとも言える怒りです。私達でさえ悪への怒りを覚えると思います。人が犯した罪と過ちに対して聖なる怒りと悲しみを現された神に対し、イエス・キリストがご自分をなだめとして差し出されたというのです。しかしその背後にあるのは神ご自身の愛でした。それは神の怒りに対して、神がそして神の御子がなだめとなられるという愛だったのです。神様の愛はご自身の怒りよりも大きく、私たちに救いの道を開かれたのです。

 実はこの「なだめの供え物」ということばはギリシャ語では「ヒラステーリオン」ということばで、本来は「贖いの蓋」を意味しています。この贖いの蓋は旧約聖書に記されている神の臨在を表す契約の箱の上に置かれた純金で出来た蓋でした。民の罪を赦すためにこの贖いの蓋の上と前にいけにえの動物の血が幾度も注がれたのです。しかし神の御子であるイエス・キリストの贖いはただ一度だけで十分でした。キリストがただ一度なだめの供え物となってくださり、あなたのすべての罪が赦され、いのちと救いを受ける道が開かれたのです。

 ここでヨセフはシメオンを縛り、他の兄達をカナンへ向かわせました。ヨセフの精一杯の愛の行為が25節、26節に見られます。ヨセフは兄達が穀物を買うために持ってきた銀までも、そっと返しました。兄達は道中の宿泊所で袋を開けると銀が返されているではありませんか!それを見て彼らは罪責感のゆえにかえって心配しました。同時に「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう」と良心に目覚め、罪をさらに自覚し、神の祝福を考えだしたのです。

 

 アドベントの4週目を明日から迎え、いよいよ年末に向かう時、神が私達にどれほどの祝福と恵みを与えてくださったのか、数えてみましょう。もし悔い改める事があれば、それをもって父なる神の御元に進み出ましょう。イエス様を信じる私達は、イエス様の十字架によってもう許されているのです。そしてキリストの愛をしっかりと受け取り、いのち溢れる歩みへと進み出しませんか? 神の愛の溢れるクリスマスを迎えるために準備しましょう。

 

クリスマスツリーのオーナメントに金や銀のボールを飾りますが、その輝くボールには美しいシリアの言い伝えがあります。

ヨセフとイエスを抱えたマリヤが家畜小屋として使われていた洞窟の中で一夜を明かしているときに、洞窟の中にいた蜘蛛が、冷たい風が洞窟の入り口から入ってきて「イエス様が死なないように」と蜘蛛の巣を洞窟の入り口一面に張り巡らしたそうです。その張り巡らした蜘蛛の巣によっては寒気を防ぐことは出来ませんが、蜘蛛は自分が主のためにできる精一杯のことをしました。当時2歳以下の男の子の幼子を見つけて殺せと命令したヘロデ王の軍の兵士が洞窟の入り口まで来たところ、蜘蛛の巣が一面に張りめぐらされていたため、『ここに人が入っていれば、くもの巣が破れているはずであり、この中にはいないだろう』と判断、そのまま素通りしたため、イエスとその両親の3人は一命をとりとめたのです。クリスマスの飾り付けの金や銀のボールには、この際に張り巡らされた蜘蛛の巣にできた月の光を反射した夜露を表しているとも言われています。

蜘蛛というみんなから嫌われてしまう小さな生き物も、創造主なる神が用いるために造られました。私達も神様のご用のために造られました。

メリークリスマスと同時にハッピーニューイヤーと新しい年を迎えるにあたり、「神様、私はあなたから十分な恵みと愛、祝福を頂いています。ですから、どうぞ私をお用い下さい」と祈り求めたいと思います。

 

最後に今年一年イエス様が守って下さった事、恵み、祝福を与えてくださったことを感謝しつつ、詩篇103を皆さんで声に出して読みたいと思います。

 

1わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。

聖なる御名をほめたたえよ。

 

2わがたましいよ、主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな

 

3主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、

 

4あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

 

5あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる

 

お祈りします。