2016年5月21日 創世記21章 「約束の成就」

 

今日は21章から「約束の成就」「問題解決への主の介入」「アビメレクとアブラハム」

という3つのポイントから、主なる神の約束は必ず成就される事を信じ、礼拝を捧げていきたいと思います。

まず1節から8節「約束の成就」についてです。

1節「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに 主はサラに なさった。」 「は約束されたとおり」「は仰せられたとおり」と繰り返し強調しているのは、主の言葉がそのまま実現した、ということです。創世記17章で99歳になったアブラハムは、「わたしは全能の神である」という神の啓示を受けました。ですから神が、その約束を成就する力を持っていることを信じて、彼は待っていました。

 私たちは、神の御言葉をこのように信じなければなりません。預言者イザヤを通して神はこう言われました。イザヤ書55章11節「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる

 神の言葉には力があり、いつでも変わらない真実です。たとえ私達が変わりやすい者であっても神の約束は変わる事がありません。イエス様を信じる者に与えられる約束は変わらないのです。第2テモテの手紙2章13節でパウロはこう言いました。「私達は真実でなくても、キリスト・イエスは常に真実である」

 1節で「サラを顧みて」とありますが、原語から見ると「サラを訪問して」という事です。創世記18章10節で主なる神はアブラハムとサラに約束の言葉を与えましたが、覚えていらっしゃいますか?  「私は来年の今頃、必ずあなたのところに戻ってきます」

その通りに、主はサラを訪問してくださったのです。目に見える形ではないにしろ、そのようにしてくださいました。

 そして2節「サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ」  主なる神にはご計画があります。それもベストな神の時に実行されます。その時までに神は私達を様々な出来事や、ある時には試練を通じて、砕かれ、その祝福を受けるにふさわしい一番良い状態になるまで整えてくださり、そのご計画を実行されるのです。アブラハムとサラにとっては年老いた時、自分の力ではもうどうする事も出来なくなった時が、神が約束した子供を与える最善のタイミングでした。

 

2週間前、ニュージーランドからゲストとしてフィルとブロンが2歳のナイル君を連れてかぬまプレイズチャーチに来てくれました。フィルとブロンは長い間子供が授からず、不妊治療をがんばっていました。しかし与えられず、ナイル君を養子として迎えました。

養子として迎えるためにいろいろな苦労がありましたが、ブロンはこう言っていました。

「ナイルが来てくれた事によって、神様の愛の深さが分かりました。私達イエス様を信じる者は神の子、神の家族にイエス様を通じて天のお父さんと養子縁組したのです。それが

天のおとうさんにとってどれほどの喜びでしょうか!? それが分かるようになりました」

神様はフィルとブロンにとって一番良い時にナイル君を二人にお与えになったのです。

 

さて、3節4節をご覧ください「アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した」     

アブラハムは主なる神の命令に従って、子供の名前をイサクと名付け、八日目に割礼を施しました。これは主によって与えられた約束の子である、というアブラハムの信仰告白です。6節、7節はサラの嬉しさと賛美、そして神の祝福が書かれています。6節を新共同訳の聖書を見ると「神は私に笑いを運んできてくださった、与えて下さった」今までのサラの心境を考えると、「まさに真実の神の約束が今、与えられました」というこの上ない喜びと、神様が「本当にわたしの約束した通りになっただろう」と言ってサラを祝福された事が分かります。そして「周りの人々も一緒に喜びんでくれるでしょう。主に不可能な事はありません!」と主を賛美しているのです。

 

しかし、それから3年くらいがたって家庭内に問題が発生します。イサクが乳離れをし、アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催しました。その時、女奴隷ハガルによって生まれたイシュマエルは16、17歳くらいでしょう。イシュマエルがイサクをからかっていて、それをサラが見つけました。9節「サラは、エジプト人の女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た」イサクが生まれるまで、イシュマエルはアブラハムにとっても、やっと授かった男の子として、ずっと大切に育てられたはずです。しかし神様が与えると約束された子供イサクが生まれると、どうでしょうか? 今まで注目していたイシュマエルへの愛情が、今度はイサクに注がれるのです。イシュマエルの心は落ち着かなかった事でしょう。そしてイサクがイシュマエルにからかわれ、いじめられている様子を見た母親サラの気持ち。いてもたってもいられなかった事でしょう。この9節でわざわざ「エジプト人の女ハガルがアブラハムに産んだ子」と書いているのは、アブラハムが神の約束を信じ切れず、自分の力によって生まれた子であり、ハガルがイサクに対して抱いていた「さげすみ」を反映していたものであると同時に、女主人であるサラをも見下している事につながります。

「子は親の鏡」と言われますが、それを反映した出来事だったので、「エジプト人の女ハガルがアブラハムに産んだ子」とイシュマエルの事をそのように書いたのです。なんだかドキッとしますね。親が子供に対する気持ちがそのまま子供の思考や言動に現れてしますのですから・・・。

アメリカの教育学者ドロシー・ロー・ノルト博士が書いた本「子どもが育つ魔法の言葉」の中の「子は親の鏡」という19行の詩(ポエム)を紹介します。

子どもは、批判されて育つと 人を責めることを学ぶ。

  子どもは、憎しみの中で育つと 人と争うことを学ぶ。

  子どもは、恐怖の中で育つと オドオドした小心者になる。

  子どもは、同情されて育つと 自分を可哀想だと思うようになる。

  子どもは、馬鹿にされて育つと 自分を表現できなくなる。

  子どもは、嫉妬の中で育つと 人をねたむようになる。

  子どもは、ひけめを感じながら育つと 罪悪感を持つようになる。

  子どもは、辛抱強さを見て育つと 耐えることを学ぶ。

  子どもは、正直さと公平さを見て育つと 真実と正義を学ぶ。

  子どもは、励まされて育つと 自信を持つようになる。

  子どもは、ほめられて育つと 人に感謝するようになる。

  子どもは、存在を認められて育つと 自分が好きになる。

  子どもは、努力を認められて育つと 目標を持つようになる。

  子どもは、皆で分け合うのを見て育つと 人に分け与えるようになる。

  子どもは、静かな落ち着きの中で育つと 平和な心を持つようになる。

  子どもは、安心感を与えられて育つと 自分や人を信じるようになる。

  子どもは、親しみに満ちた雰囲気の中で育つと 生きることは楽しいことだと知る。

  子どもは、まわりから受け入れられて育つと 世界中が愛であふれていることを知る。

「子供は」で始まりますが、子供に限らず、人間関係を豊かにするための秘訣だと思います。

イシュマエルを産み女主人サラからいじめを受けて。一度はアブラハムの家を出たハガル。主なる神に憐みと励ましを受けて出戻りなんとかやってきた17年。サラに待望の男の子が与えられ、ハガルのやるせない気持ちをくんだ息子のイシュマエル。行場のないイシュマエルがみんなに可愛がられているイサクをいじめている、その状況を目にしたサラの気持ち。どんな気持ちだったのでしょうか? いてもたってもいられないですね。

10節サラはアブラハムに言いました。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」その言葉を聞いたアブラハムはとても悩みました。サラが言っている事はもっともな話しです。しかしアブラハムにとってはとても辛い状況ですね。そんなアブラハムに神はきちんと答えてくださるのです。12節、13節「神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから

神様によって解決策を与えられたアブラハムはそれに従って次の朝早くにパンと水の入った皮袋をとってハガルに与え、それを彼女の肩に乗せて、イシュマエルも一緒に送り出しました。サラは「追い出してください」と強く言いましたが、アブラハムは「送り出した」のです。この「送り出した」という表現は、罪を犯したアダムとイヴをエデンの園から出された神がそうされた時と同じ動詞が使われています。それは「愛と憐みを持って送り出す」事なのです。

アブラハムはハガルに次のオアシスまで十分な食料と水を与えましたが、ハガルは道に迷いベエル・シェバの荒野をさまよって、とうとう水が尽き果てました。ベエル・シェバはエジプトのほうに下ったあたりです。自分の子供の死ぬ姿を見たくないと、弱っている息子を灌木の下に投げ出し、矢の届く距離に離れて声を上げて泣くハガル、哀れな母と子を憐み深い神は見捨てなかったのです。脱水状態で意識朦朧となっているイシュマエルの声を神様は聞かれ、泣くハガルに天から神の使いが呼びかけます。「恐れることはない」と。

その言葉を受け、恐れによって塞がれていた目が開かれて、井戸を見つけました。

こうしてハガルもイシュマエルも、再び神様の守りの内に置かれていったのです。

20節に「神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった」とあります。アブラハムとサラの自分勝手な行動の結果として生まれたイシュマエルを、主なる神はこのように「御守り」の中に置いて下さり、共にいて導き、一つの民として下さったのです。

イサクは約束の子です。神の祝福はアブラハム、イサク、ヤコブと流れ、イスラエル民族が選びの民となります。そして憐み深い神様はイシュマエルも祝福し、ひとつの国民としようとアラブ民族の祝福も約束されたのです。今の中東問題の解決も主なる神の御手にあるのです。神様はひとりひとりを愛しておられます。恵みを受けた私達クリスチャンはひとりでも多くの人が、またユダヤ人がアラブ人がイエス様に出会い、救われる事を祈っていきましょう。

  人間の不信仰が引き起こした問題に対する神様の約束と真実、アブラハムを通じて色々な事を私達は学ぶ事ができます。 

 

さて、先程14節でハガルはベエル・シェバの荒野でさまよっていたとあります。神の助けによって目が開かれ井戸があるのに気づき、ハガルとイシュマエルが助かりました。

ベエル・シェバと地名が付けられた由来が22節から33節に書かれてますが、その背景に、もうひとつ問題がありました。

22節から34節で20章に登場しましたゲラル地方の王アビメレクが再び登場します。アビメレクはアブラハムを恐れていました。なぜならいつも神がアブラハムと共におられ祝福されるのを見たからです。アビメレクは23節で「私や家族を裏切ったりしないで、これからもゲラルの国と友好関係を保ってくださる事を、神の名にかけて誓っていただきたい。私は前回のようにあなたに対して誠実を尽くしましたから、同様にしてください」と交渉します。アブラハムは「いいですよ、誓います。しかし私達の井戸をあなたの部下が奪い取ったでしょう。何度も井戸の事では抗議してきました。その所有権は私のものであるとはっきりしたいので、ここにメスの小羊を7頭贈ります」と契約を結び、井戸の近くに荒野でも、たくましく生える柳の木を一本植えて、永遠の神の御名によって祈りました。この場所はベエル・シェバと呼ばれています。「ベエル」は井戸、「シェバ」は数字の7という事と「誓い」という意味があります。7頭の小羊を送る事と誓う事を示しているのです。それ以来このベエル・シェバでアブラハムとイサクは定住する事になります。

今日の聖書箇所21章から「約束の成就」そして「神様がどんな問題でも解決してくださる事」を学びました。ですから、私達は安心して心の重荷を主に委ねる事が出来るのです。

最後にひとりのクリスチャンの方を紹介します。上原玲子さんです。

彼女は沖縄出身です。アメリカ人である実父の顔を知らずに生まれ、生後4ヶ月で上原家の養女になりました。5才の時に自分の生い立ちを知り、心の内に孤独を抱えるようになる。理不尽な周りからの差別 に苦しみ、自分の存在場所を歌手という世界に求めて上京。17才の時、テイチクレコードのオーディションに合格しましたがが、デビュー直前に心の空しさを覚えて沖縄に帰りました。

沖縄クリスチャンスクール時代の恩師が通う教会を訪ね、満たされぬ思いに対する答えをイエス・キリストの愛の中に見出し、1970年にイエス様を信じ洗礼を受けます。それから彼女の歌の賜物を生かし、オリジナルのゴスペルソングによるコンサート活動を開始しました。

彼女は自分の生い立ち振り返り、このように証ししています。

私の人生のページをめくる時、「あのことがなければ」「こうしていれば」、忘れてしまいたい事、やり直したいことがたくさんあります。でも、戻すことも、早めることもできない「時間」。 そんな過去の過ちが赦され、マイナスと思われる出来事がプラスにかえられ、新しい今日が迎えられるとしたら・・・ そんな、奇跡に出会ったのは私が18才のころです。あれから、長い年月を経て、日々驚きを覚えるのは、「すべてのことを働かせて、益として下さる」神様の不思議です。ローマ人への手紙8章28節「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 神様は私たち一人ひとりをこの世の始まる前から知っておられ、又、その罪深さも十分に知りながら、私たちを受け入れ愛して下さるお方です。その、神様の一番大きな愛は、私たちの罪の解決のためにイエス様を十字架で身代わりとする事でした。それは私たちの魂を神に買い戻すために払われた代価です。そうであれば私達はどんなに神にとって大切なものでしょう。人間関係でつまずき孤独な私たちに、神様の無条件の愛が魂を癒せる唯一のものだと思います。

 沖縄には現在5,000人以上の混血児がいるそうです。私もまたその5,000人中の一人の混血児としてアメリカ統治下の沖縄で生を受けました。同世代に生まれてきた大多数のハーフと同様、「私生児」として……。

 幼い頃の私はおてんばで、じっとしていることが苦手な子どもでした。近所の友だちと野原や畑を駆けずり回り一日中遊んでいた。手や足に生傷が絶えないそんな私に、生涯忘れることができない、心の傷ができる事件があったのはちょうどその頃でした。

 「令子、あんたもらい子よ!」 一緒に楽しく遊んでいた友達が突然なんのためらいもなく教えてくれたのです。驚いたのとショックで、心がはちきれそうだった。いや、もしかしたら心の奥では、すでに感じていたのかもしれません。両親の顔も兄の顔だって完全に日本人なのに、私だけがほりの深い西洋風な顔立ちをしているのだから・・・・・・。でも、その友達の一言はあまりにも悲しかったのです。その瞬間、私は自分の「価値」を無くしてしまった。「私はこの家の本当の子どもではない。だから愛されていないんだ・・・・・。」 まだ5歳の私には、この事実を理解することなど無理でした。ただ何よりも一番大事な家族の愛を失ってしまったような気がしたのです。それからは両親の愛が信じられなくなり、「やっぱり愛されていないんだ」と卑屈になっていきました。

 心の傷はそれだけにおさまらなかった。この容姿のおかげで「アメリカー、あいのこ」といじめられ、泣きながら家に帰るのもしょっちゅうありました。そんなとき私を慰めてくれたのは父の店で働いていた“お兄ちゃん達”でした。涙を拭きながら帰って来る私に、優しくこう言ってくれた。「誰がいじめたの?どら、お兄ちゃんがやっつけてやるよ!」 

そんな言葉にいつも慰めを受けていたのです。ずいぶん後でわかったのは、私を励ましてくれたその3人のお兄ちゃん達も、実は父が孤児院から引き取ってテーラーの仕事を教えていたのです。彼らもきっと親がいないことでいじめられ、さみしい思いをしたに違いありません。だからこそ、自分のことのように親身になって優しい言葉を掛けてくれたのだと思います。

 アメリカ兵との間にできた私を育てることができなかった母は、4ヶ月の私を養女として手放しました。その事実を、中学生の時に知らされていたのです。「望まれて生まれてきたのではない。間違いで生まれてきたのだ」と思うと、自分の価値はますます低くなっていきました。そんな寂しさを満たすために、毎晩クラブにいりびたり、万引きをし、タバコを吸い、酒を飲んでいました。そしてしまいにはマリファナにまで手を出すようになっていったのです。中学校を卒業した後、念願のアメリカンスクールに入学させてもらいました。知らない父へのあこがれと、自分の半分のルーツへの興味もあって、どうしても英語をマスターしたいと思っていたからです。そこで英語だけでなく、聖書も学ぶことになるとは夢にも思いませんでした。

 17歳になった私は歌手になることを夢見て上京しました。“有名になって、自分をいじめた人達を見かえしたい”という思いに加えて、“自分は生まれてきて良かったんだ”という、自分に対するアイデンティティーの確立のためでもあったのです。オーディションに合格しとても嬉しかったのですが、それ以上の感激や喜びはなかった。それどころか、

ちょうどその頃マリファナの後遺症で起こる理由の無い恐れに、さいなまれるようになっていました。心が恐れでいっぱいになってしまい、どうしていいかわからなくなった私は、歌手を断念して沖縄に戻ったのです。誰にも言えず、一人で「心」と戦う日々の中「死にたい」そう思っても怖くて死ねず、ただ絶望するだけの毎日でした。

 そんな時思い出したのが、クリスチャンスクールで毎日のように聞かされた神さまの事です。「そうだ!『神様はあなたの人生を変えてくださる』といつも言っていた。教会に行ってみよう。」 そう思った次の日曜日に教会へ出席しました。学校時代にいやいやながら歌った賛美歌を会衆と共に歌い出した瞬間、歌が魂に染み込んできて、涙が止めどもなく流れました。礼拝後、「神さまを信じたい」と先生に打ち明けました。先生は私の手を取って一緒に祈ってくれました。「神さま、どうか罪びとの私を赦してください。イエスさま私の心の中にお入りください。そして人生を導いてください。」 短い、単純な子どものような祈りでしたが祈った瞬間、今までかつて味わったことのない安心感と喜びが心の中に泉のように湧き上がってきました。もう嬉しくて、嬉しくて、イエスさまに出会った瞬間、18歳の春でした。

 それからは、イエスさまが聖書を通して私の疑問や悩みに答え、心を癒してくださったのです。私生児の私に「母の胎のうちで、私があなたを組み立てた」と声を掛け、両親に育てられなかった私に、「あなたの父母があなたを見捨てるとき、主があなたを取り上げてくださる」と言ってくださった。一人ぼっちだったと思った私に、「私はあなたと共にいる」と言い、価値が無いと思っていた私に、「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している」と言ってくださったのです。

 この世に生を受けた人で、間違って生まれてきた人は一人もいません。さまざまな苦しみに遭う時、その苦しみが益になるとは、その時には考えられませんが、苦しみの中でしか出会えないイエスさまがいるのです。その人にしか解らない苦しみは、またそれを乗り越えた人にしか味わえない喜びも与えてくれます。また、その経験は自分だけに留まらず、周りの人達のためになる事を教えられました。誰でも神さまにあって「新しい人生」が与えられるという事を伝える使命を与えられ、ゴスペルを歌わせていただいています。

このようにイエス様の愛によって人生が変えられた上原玲子さんのように、ひとりひとりに神様の愛と祝福は注がれているのです。

 

お祈りします。