2016年4月9日創世記16章「私を見られるお方」

 

色とりどりのお花が咲いて、きれいな季節となりました。マルチン・ルターの言葉「神さまは、復活の約束を聖書のうちばかりでなく、春の若葉の一枚一枚に書き記していらっしゃる。」死から蘇られた復活のイエス様をいつも思っている事は、私達の力ですね。

 

さて今日の聖書箇所、「信仰の父」といわれるアブラハムの生涯において、最も大きな失敗の記録です。登場人物はアブラム、妻のサライ、女奴隷のハガルです。

アブラムはこの失敗によって、13年間、神からの呼びかけを聞く事もなく、新しい導きも一切ありませんでした。むしろ、家庭内にいろいろな問題を引き起こす原因を作ってしまっただけでなく、現在の世界の火種となっている中東問題にまで至る原因を作ってしたのです。

確かに失敗のない人生、失敗のない信仰生活はありません。16章のような出来事は

誰でも引き起こす問題だと思います。「神から与えられた約束を、私たちの方で実現しなければならない」と考えてしまう事から、もたらされる失敗です。

   アブラハムの全生涯を見てみると、神様がアブラハムを信仰の父として訓練するためのプログラムに、失敗の経験が無駄なく組み込まれているように見えます。失敗それ自体は辛く痛みを伴いますが、それがやがて益となり、アブラハムを「信仰の父」として導かれた神の恵みと真実に私達は励まされます。

 

では、まず「失敗の要因とそれがもたらしたもの」について考えてみましょう。

アブラムは神から「あなたの子孫は星の数ほどになる」と約束を与えられ、それを信じて義と認められました。神の一方的な約束において、アブラハムに求められた事は「ただ信じる事」だけです。しかしその約束については、神ご自身が実現するものである事を、アブラムはまだ理解していませんでした。神に従って故郷のウルから出てここに至るまで、既に10年が経過していましたが、子供は一人として与えらず、約束と現実とのギャップはあまりにも大きかったのです。人はこのようなときに、どのような対処をするでしょうか?私たちは二通りの方法で対処しようとします。ひとつは、「それでも神を信頼しつつ、信仰をもって主の時を忍耐強く待つ」という方法であり、もうひとつは、「ただ祈って待っているだけではだめなのではないか、やはり、自分たちのほうでも知恵を用いて何らかの具体的な行動を起こさなければならないのではないか」と考えて行動してしまう方法です。

アブラムと妻のサライは後者の方を選びました。

  私たちの問題は「待つ」という状態に置かれる事に耐えられず、自ら行動を起こしてしましがちです。神の約束を祈って待つという事がとても難しく思えてくるのです。これは信仰のテストです。状況がなにも変わらなくても、常に、平静な心で対処が出来るためには信じ続ける力がなければ出来ない事です。

 心理学者ウォルター・ミシェルがマシュマロを使って子どもの忍耐力と将来性について実験しました。ご存知の方もいらっしゃると思いすが、実験の内容はこうです。

4歳の子供達の目の前に1個だけマシュマロを置いて、実験者が「このマシュマロを食べないで15分待つことが出来れば、もう1つマシュマロをあげる」と言い、部屋を出ていくというものです。

その後、部屋に残されて1人になった子どもが、そのマシュマロを食べるか食べないか…というものです。15分待つことが出来れば、もう1つマシュマロをもらえるのですが、、相手は4歳の子供なので自制心が働かず、我慢できた時間は平均2分でした。ですが、

ちゃんと15分我慢できた子供達も、もちろんいました!我慢できた子供達は、マシュマロを見ないように目をそむけたり、目を手で覆ったり、子供なりに工夫するのです。中にはイライラして机を蹴りだす子もいたようですが、マシュマロから注意をそらそうと頑張っている子供達が多かったようです。ちなみに15分我慢できた子どもは全体のおよそ3分の1から4分の1。ですので、割合的に我慢出来る子の方が少ないという事になりますね。その後もその子供達の様子を追跡調査したら、マシュマロをすぐに食べてしまった子と我慢できた子の間に、かなり違いがあることがわかりました。マシュマロをすぐ食べた子は、行動上に何らかの問題を抱えている確率が高く、家庭や学校での問題行動を起こす可能性が高いことが判明しました。また成績において読解、小論文、数学の3つの分野から構成されている大学進学適性検査の結果を比べると、マシュマロを食べずに我慢出来た子のスコアが210点ほど高かったようです。そして成績だけでなく、自制心に優れ、成功者も多いという事が証明されています。ですから、忍耐力はとても大切な力なのですね。これがなかなか難しいのですが・・・ このマシュマロの実験は15分ですが、アブラハムが子供が与えられるまで待ったのは13年です。その間アブラハムは信仰と忍耐力の欠如で失敗をしますが、この失敗を通じて「神の約束の実現の時がある事」を知る事になります。アブラハムの失敗の要因は「サライの言う事を聞き入れた」という点にあります。同じ失敗をした人が聖書の始めに書かれています。最初の人アダムの失敗も妻のエバが善悪の知識の木の「実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた」という点でした。

妻のサライは神の約束を待てず、人間的な画策によって、神様の手助けをしなければならないと考えて、夫に提案しました。サライの提案は、当時の習慣にならっての事で、妻が不妊の場合は、夫に女奴隷を与え、彼女によって子を得るようにするのが妻の義務でした。ですから、2節にあるように「ご存知のように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。・・・どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」とサライが提案したのも決して不自然な事ではなく、アブラハムはサライの言う事を聞き入れたのです。主の約束は「あなた自身から生まれ出て来る者が」と言われていたので、妻のサライから生まれなくても、アブラハムの子であれば主の言葉に反する事にはならないのではないか、と神の約束の実現に向けた妻のサライ提案でした。このように、いかにも自然体で、あまりにも常識的な、しかも最も身近な、親しい者からの説得力のある提案を退ける事は、とても難しい事がわかります。

ところが、二人が選んだ方法はサライの思いとは全く逆の方向に動き出し、悪い結果となってしまったのです。4節「彼女・ハガルが身ごもったのを知って、自分の女主人サライを見下げるようになった」ので、5節でサライがアブラムに対し、それに対しての不満をぶちまけ、その上「主が、私とあなたの間をおさばきになりますように」と強気な発言をします。それに対する夫アブラムの発言「ご覧、あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい」です夫の言葉を受けてサライはハガルをいじめて、耐えかねたハガルは逃げて行きます。この場面をテレビドラマでやったら「渡る世間に・・・」のドラマ以上に話題になるでしょうね。なんともいえないドロドロ劇場。どうしてこのような事態になったのか・・・。アブラムとサライが神を信頼せず、自分たちの知恵に頼り、人にこの場合は女奴隷のハガルに期待したからです。

女主人であるサライのいじめに耐え切れなくなった身重のハガルはそこから逃げ出しました。主の使いはそのハガルを見つけ、8節「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねます。そしてハガルは事の次第をのべると、9節主の使いはハガルに「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして彼女のもとで身を低くしなさい。」と語り、彼女から生まれる子の子孫に対する祝福を告げました。これは、ハガルが女主人に対して謙遜に、従順に仕える事が最善の解決である事を告げたのです。さらに主の使いは、11節、12節でハガルが身ごもっている子は男の子であり、イシュマエルと名づけるよう語り、イシュマエルがどんな人物になるのかも伝えます。イシュマエルという名前の意味は、「神は聞かれる」です。主がハガルの苦しみを聞き入れてくださったからです。そして、ハガルは「あなたは私を顧みられる神」という思いを込めて13節「あなたは、エル・ロイ」と主の名を呼びました。ハガルは女主人であるサライの冷酷な扱いを引き起こした自分の傲慢さと荒野での孤独の中で、自分に語ってくださると出会いました。「あなたはどこから来ても、どこへ行こうとしているのか。自分の立場をわきまえつつ、自分の本来居るべきところに身を低くして、そこで仕えるように」と諭される事は、決してそれは心地の良い事ばかりではありませんでしたが、その語りかけの中に、彼女は自分を顧みてくださっている神の愛を感じ、励まされ、置かれていた場所に戻りました。

詩篇119篇71節「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」と詩篇の作者もいっているように、私達を造られた主なる神は苦しみをもプラスに変えてくださるのです。私達の全てをご存知なのです。詩篇139篇でダビデはこう告白、祈っています「主よ、あなたは私を探り、私をしっておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます~神よ、私を探り、私のことをしってください。わたしを調べ、わたしの思い煩いをしってください。私の内に傷ついた道があるか、ないかをみて、私をとこしえの道に導いてください」すべてをご存知の主なる神は、ハガルを励ましたように、今日も私達ひとりひとりを励まし導いてくださっているのです。

 主の使いの勧めに従って15節、16節「ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけ、その時にアブラムは86歳だった」   マホメットは自分がイシュマエルの子孫であると主張し、今日多くのアラブ人が自分たちはイシュマエルの子孫である、と言っています。そして主の使いが12節でイシュマエルの事を「彼は野生の ろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべてお兄弟に敵対して住もう」と預言したように、今日アラブ人は野性のろばのような荒々しさと、すばしこさを持っています。

また異母兄弟であるユダヤ人と対立しています。現在の中東問題の根っこの部分は、アブラム、サライの信仰の問題に原因がありましたが、もっといろいろな要素が複雑に絡んでいます。だからこそ、霊的にアブラハムの子孫とされている私達クリスチャンは、イスラエルが平和を求め、ユダヤ人の祝福のために、そしてアラブ人に対しても主なる神の憐みと愛が注がれますようにと祝福を祈るべきだと聖書は教えています。

詩篇122:6「エルサレムの平和のために祈れ。おまえを愛する人々が栄えるように」

イスラエルの初代首相ダヴィッド・ベングリオンは次のように言いました「イスラエルで現実的であるためには奇跡を信じなければならない」ギリギリの中で生き、ギリギリの中で神様に助けられているのです。私達は、気が付かないけれど、神様の奇跡、恵みの中を生かされているのです。

マルチン・ルターは、奇蹟について次のように書いています。「日々起こる神のすばらしいわざは、軽視される傾向にあります。それらのわざに意味がないからではなく、それらがあまりにも頻繁に、しかも継続して起こっているからです。人は、神が世界を支配し、その運行を導いておられるという奇蹟を、当然のことのように考えています。宇宙の運行が規則正しく行なわれているため、その価値を認め、神に栄光を帰す人がいなくなっています。しかし、よく考えてみれば、これらの日々の奇蹟のほうが、5、000人のパンの奇蹟や、水をぶどう酒に変えた奇蹟よりもすばらしい事がわかります。」

奇跡を信じる信仰を持てるように、祈り求める事が大切ですね。詩篇121「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」この御言葉は私達の力になります。

 今日の聖書箇所から学ぶ事は、たとえ失敗をしても神の祝福は変わらないという事であり、このアブラハム、サラの失敗から、私達はいつでも主なる神を信頼し、約束を握りしめ、決して人間の知恵や常識で行動するのではなく、主の御業を、奇跡を待ち望みましょう。 その力の源は日々の礼拝、神様とのつながりの中で育まれるのです。イエス様を信じる私達がキリストにある新しい創造であり、神様からの力を通して、私達は神様の御心と御計画に完全に信頼し、忍耐を示す事ができるのです。

ローマ書2章7節「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与える」と主なる神様は私達に約束してくださっているのです。

私達はついつい、あなたの約束の実現はいつですか?と叫びたくなる事があります。

家族や友人の救いを祈っても、思ったようにならず、求めている事の答えがすぐに与えられない焦りを抱えたり・・・。しかし、それは信仰の歩みを確かにするための神様の愛に溢れるお計らいです。

最後にクリスチャンの方の証しを、紹介します。長谷川 町子さんです。

テレビアニメ「サザエさん」が放送開始されてから昨年で45年目でした。

「サザエさん」の作者・長谷川町子は題名のヒントをこう話しています。「終戦の翌年、西日本新聞から掲載の依頼がありました。身近な題材で描ける若い女性を主人公とし、サザエさんと名付け、そのほかの登場人物も全部海産物の名前からとりました。これは、当時海岸近くに住んでいたので、朝夕磯辺を散歩しているときに思いついたのです」

1920年(大正9年)に佐賀で生まれた町子さんは、その後すぐに福岡に移りました。福岡で高校2年生まで過ごしましたが、父親の死をきっかけに上京し、クリスチャンであった母の貞子さんの強い後押しにより、当時『のらくろ』で有名だった漫画家の田河(たがわ)水泡(すいほう)に弟子入りしました。内弟子となった16歳の町子は、週に一度わが家に帰りたい一心で、「毎週教会に通いたいから、日曜日にお暇がもらえないでしょうか」と母を通してお願いしてもらいます。ところが、ちょうど田河家の隣に教会があり、そこに田河夫妻と一緒に通うことになってしまいました。町子さんご自身は決して熱心なクリスチャンのではなかったので隣の教会に行く事は不本意でしたが、これがきっかけで田河夫妻は二人そろって洗礼を受けることになるのです。町子は自伝の中で、「『後なる者は先に、先なる者は後に』という聖書のたとえの生けるサンプルとして、また神様のお役に立つことができた」と語っています。また田河さんがイエス様を自分の救い主であると信じ、洗礼をうけた理由は、「何度も失敗してきた禁酒を今度こそ成功させるために信仰の力を借りよう」というものだったと告白されています。

 町子さんは仕事を休みたいので「毎週教会に通いたい」と言い訳を神様は用いて、田河さんを信仰に導いたのです。これこそ神様の不思議な御業ですね。

 

今日もイエス様の御手の中に、私達は生かされています。失敗を益に変えて下さるイエス様がいつも一緒です。

ヘブル人への手紙10章36節から39節「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるのに必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」

 

 

 

お祈りします。