20161126日創世記40章「ヨセフの生涯③忍耐の訓練」

 

前回は濡れ衣を着せられて投獄されたヨセフ、それでも主がともにおられるという事を見てきました。ここにいる皆さんは昨日も今日も明日も変わらない主が共におられる事を、喜んでいますか? またどんな時に、イエス様が助けてくださっていると感じるでしょうか?

 

「喜ぶ」とは、たとえどんな状況にあっても主に感謝をし、賛美する事です。第1テサロニケ人への手紙516節から18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」

教えている中学3年生の女の子、最近学校に行きたくない・・・隣の席の男子が生理的に受け付けない存在でとっても辛い・・・だから毎日が苦痛です。そんな悩みを聞くときに、「神に祈れる幸い」を思います。特に辛いことや困難な出来事に直面するとき、「どうしてですか?」「神様が本当にいるなら、どうして私だけ苦しい状況に置くのですか?」と思い通りにならない自分、やることなすこと失敗してしまう現実を抱えてしまう時に「どうして」「何故」と何度も問いかけてしまうのです。自分のことを責めて「どうせ自分なんて」とすねてみたり、あるいは周りにいる人の事を非難したりしてしまいがちです。けれども、時間は止まる事なく流れています。そして、私達も同じ所に留まって、不平や不満ばかりを口にしているわけにもいかないのです。私達の日常の生活は喜ぶ事、祈る事、感謝する事の少ない現実にあるのかもしれません。けれども、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と聖書は私達に語りかけています。人間とは喜び、祈り、感謝することのできる存在なのだと私達に教え示してくれているのです。たとえ今どのような状況に私達が置かれているとしても喜び、祈り、感謝する生活があるのです。

 

 今日の箇所のヨセフもまさにそれを生き、周りから信頼され、そして神の時をじぃっと待っていたのです。ヨセフに起こった事は私達にも起こりえます。人生の最も暗い時にどう忍耐するのか、という事を教えています。

 ヨセフが投獄されてからしばらく経って、エジプトの王に罪を犯した料理長と献酌官長いわゆるぶどう酒の毒味役の長の二人がヨセフのいる監獄に入れられました。二人が犯した罪については聖書に書かれていませんが、おそらくパロの食事に毒をもった疑いがかけられたのかもしれません。その二人の付き人としてポティファルがヨセフを任命されました。妻の狂言によってしかたなくヨセフを投獄したポティファルはヨセフを本当に信頼していたのでしょう。そして宮廷に仕える二人が監獄に拘留されたのも、後でわかりますが、神のお計らいです。この二人が夜、夢を見ました。その夢には意味がありましたが二人には理解出来ず、心が穏やかではない様子をヨセフが見て、「どうしたのですか?」と声を掛けました。すると二人は見た夢の事を打ち明けました。それだけ信頼関係が出来ていました。ヨセフは必ず主なる神の権厳を認め、栄光を帰すこと忘れず、主を褒めたたえながら「夢を解き明かして下さるのは神です。どうぞお話しください」と促すと、献酌官長が自分の見た夢を話し出しました。ヨセフが神によって解き明かした献酌官長の夢は、希望のある夢でした。ぶどうの木の3本のつるは三日で三日のうちにパロが呼び寄せて、もとの地位に復帰できるというものでした。そしてヨセフは14節・15節「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです」と一生懸命に頼みました。

次に料理長が自分の見た夢について話すと、とても残念で不吉な解き明かしでした。その通り、三日目にパロに呼ばれ、斬首刑となってしまったのです。ヨセフは神から示された事を忠実に話しました。そしていつも主なる神に栄光を帰すことを忘れませんでした。

 

 さて、生きながらえ、もとの地位に復帰した献酌官長は有頂天になり、ヨセフが懇願したことをすっかり忘れてしまったのです。どの位放っておかれたのかというと、2年以上の間、忘れられてしまったのです。ここを読むと、なんてかわいそうなヨセフ。2年も忘れられるなんて、ひどいと思ってしまいますが、何事にも「神の時」があるのです。

主なる神は、私達の人生に計画をお持ちです。そして神の子として信仰の成長が出来るようにと

忍耐する訓練をされます。忍耐の結果、信仰が成長し、御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」が成るのです。冬の野菜が甘くなるのは、寒さゆえに糖度を上げて凍ってしまわないようにという事は、皆さんもご存知でしょう。私達の御霊の実が甘く実るために、寒さや気温の変化が必要なのです。だから試練を通じ忍耐を学ぶような状況に置かれたら、「私の人生がより一層美味しくなるために神様がそうして下さるのだ」と思いましょう。

聖書には忍耐についていろいろな箇所で教えています。信仰と忍耐はセットです。

例えばパウロはヘブル人への手紙12章でこう教えています「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」イエス様がこの地上に来て下さったのは私達の罪を贖う十字架に掛かるためでした。そしてそのイエス様が復活されて、神の右の座、権威のある所にいておられ執り成してくださっている事を思い、いつでもイエス様から目を離さずに忍耐をもって走りなる事を勧めているのです。パウロはこう付け加えています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」愛する子供を鍛える、それが本当の愛ではないか、だから天の父なる神は、信仰をもった私達を訓練してくださるのです。

 またイエス様の弟であるヤコブが書いた手紙はまさにクリスチャンとしての生き方を教えてくれる内容ですが、ヤコブの手紙12節から4節「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります」

「忍耐」が私たちのうちに培われるのは、どのような時でしょうか。すべてが順風満帆に動くときに、忍耐は培われるでしょうか? 特に何でも手早く手に入る日本社会にいると、「待つ」「忍耐」が養われることは難しいと思いませんか? 逆境がある時にこそ、忍耐がその人の内に生まれます。愛の神様は、私達に愛しかなさらなし、愛の方だからこそ、私達クリスチャンたちが成長し、信仰と忍耐が造り上げらえる事を望んでおられるのです。

私達には、「本当に神様がいるのですか?」と疑わせるような出来事を体験します。ある人が交通事故にあったり、家に泥棒に入られたりと、その被害に会った人が直接的に罪を犯しているのではないのに、人間的には悲劇と思われることが、その人の身にふりかかります。そのようなとき、「なぜ、主よ、あなたは神を愛する人に、このようなひどいことをするのですか。」と思うのではなく、それでも神の憐れみを見出し、喜びなさい、と勧めているのです。人間の力の及ばないところに、主なる神の力が及び、神の時に全てが解決されるのを待つ。神の時を知ることが出来るのです。

今日の聖書箇所で、待つことを訓練されたヨセフの姿から私達も日常にある問題解決への忍耐、

そして、必ずこの地上に戻って来られるイエス様を待ち望もうではありませんか!

 

カリフォルニアにある「万民聖山祈祷院」の設立者であるピーター・ナム牧師の証しを紹介します。ピーター先生は1964年、31歳で韓国からアメリカに移住し、ビジネスの世界で大きな成功を治めましたが、アルコールのために体がボロボロになり、ドクターからこのままだと死にますよと宣告されました。このことがきっかけとなりイエス・キリストを信じました。

その後牧師となり1986年ナム牧師は、人々に祈りと安らぎの場所を提供するため祈祷院

(祈りに集中するための施設)を建設したい、という思いが与えられ、「そのための山がほしい」、と数十年間祈ってきたピーター・南(ナム)牧師は、主の祝福を信じて、まず自分の家を売りました。ある土地を見に行くとまさにピッタリの夢に見た土地があったので、持ち主に聞くと7千万円の価格のうち、1千5百万円の頭金があれば売るといわれたので、早速その土地を手に入れて祈祷院を建設しようと動き出しました。しかしある時突然、担保の2千万円を払わなければならなくなったのです。数日間祈っていると、「この山に向かって動いて海に入れと信じて祈るならその通りになります。祈って求めるものは何でも受けたと信じなさい。その通りなります」というマルコの福音書11章23節24節が示されました。

しばらく経って、ある人が「高速道路建設のために土がいるので、お買いになった土地の一部の8万坪の山を売ってください」と申し出てきたのです。その山が売れて必要なお金を手にする事が出来たのです。そしてついに手に入れた土地に祈祷院を造るために、手始めに仮礼拝堂として倉庫建築の許可をもらいました。建設した倉庫の検査が終わり、仮礼拝堂として暑さをしのぐための窓をつけたりして手を加えました。ところが、検査官がやって来てその倉庫を見て違法建築だと判断したのです。南牧師は逮捕され、裁判を受けることになってしまいました。彼は思わぬ事態に恐れましたが、「すべてのことを感謝せよ」との神様のことばを思い出して、「毎日熱い日の下で、ろくなものも食べず、汗だくになって働いていましたが、刑務所に入ってからは、エアコンの中で、3食の食事も与えられ、おまけに伝道もできることを感謝します」と祈って過ごしました。

裁判の日、まだあれこれと心配する師に主は、「なぜおまえが心配するのか。何を話すかは、聖霊が語る」と語られ、師は信じて自分の順番を待ちました。違法について裁判官に「あなたは自分の罪を認めますか」と聞かれた南牧師は、「はい、私はイエス・キリストにあって罪人です」と答えました。「それはどういう意味か」と聞かれ、彼はこう答えました。「私はかつてはビジネスマンとして大成功し、お金さえあれば何でも手に入ると考えていましたが、医者からも見放される病気になって初めて、自分が地獄に落ちるような罪人であることを知りました。こんな自分のために、イエス様が血潮を流してくださって、自分も家族も変えてくださったのです。それで今は、一人でも多くの人が救われるようにと願い、祈祷院を造り始めたのです」とみんなの前で語りました。

その場にいた人々は、彼の話に聞き入っていました。そして判事が最終的な判断を下しました。

「ナム先生、あなたは自由です。帰りなさい」そうしてナム先生は解放され、無事に祈祷院が建設されたのです。主の聖霊が語らせてくださって得ることのできた勝利でした。ナム先生は、忍耐を持って祈り続け、神の時があると信じる人です。そして私達もそうです!

 

イザヤ書4028節から31節「【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」