2017325日 創世記48章「神の祝福を受ける者として」

 

いよいよヤコブの最期の時に、息子達への預言と祈りをする場面に来ました。

 

48章はヨセフと、ヨセフの2人の息子達マナセとエフライムについての預言と祈りです。

ヨセフと二人の息子達が病いで伏しているヤコブの元に見舞うと、ヤコブは最後の力を振り絞って語ります。3節から7節です。ヤコブは神がアブラハム、イサクに約束したように、ヤコブ自身もカナンの地のルズで語られた祝福の約束、子孫が増える約束、土地の約束を確認しています。次にエジプトで生まれたヨセフの2人の息子達を養子に迎える、と宣言しています。これはヨセフが一つの部族として残るよりも2つの部族が出来る、つまり2倍の祝福なのです。愛する妻ラケルが子供を産むと同時に死んでしまったその事はヤコブにとって大きな悲しみだったでしょう、それゆえ神はラケルから生まれた息子達を祝福し3つの部族が誕生したのです。

ヤコブの語った事は息子ヨセフと二人の孫マナセとエフライムに対して、どんなにエジプトで繁栄してもそれを受け継ぐことではなく、どんなに苦しくても神の民としての歩みを選ぶように、信仰の継承、霊的な歩みをするようにとの遺言でもあります。前回もみなさんに質問しましたが、最期の時にどんな言葉を伝えたいでしょうか?また、次の世代に何を残したいでしょうか?

「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と聖書に書かれているのは、ひとつの神の名前であると同時に信仰継承における一つの型と言えます。

箴言176節「孫たちは老人の冠、子らの栄光は彼らの父である」信仰をもっている私達の責任は、信仰をどう次の世代に伝えていくのかという事です。そのために家庭や地域でクリスチャンとして、どう証ししているのか、どのように神の愛を現しているのかが鍵となるでしょう。いつも感謝が溢れているでしょうか?いつも喜んでいるでしょうか?   

そう考える時に、私達の信仰の原点を省みる必要があると思います。私達は主なる神の恵みによって救われました。そうです、恵みです。神様がどれほど深い愛をもって、私達を愛し、恵もうとされているのかを体感する事です。

今、かぬまプレイズチャーチの子供達の賛美曲は「God is so good 主はすばらしい」です。歌詞は・・・

「主はすばらしい 主はすばらしい 主はすばらしい 私の主

主は救い主 主は救い主 主は救い主 私の主

主は世の光 主は世の光 主は世の光 私の主」

この賛美歌を通じて、信仰告白をしているのです。主を崇め、主を貴ぶ心を育んでいます。

先程引用した箴言は私達の信仰を育む事と同時に、どのように信仰を継承していくのかを教える良きテキストです。箴言910節「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」

 神様に選ばれた者として、いつも神様の言葉に従う者であり、次世代のためのお手本になりたいと思います。

次に9節から16節を見ていきましょう。

ヨセフの2人の息子達を祝福するヤコブの姿です。10節にあるように、イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて見る事が出来なかったので、ヨセフが2人の息子達を近寄らせました。そしてイスラエルは「神様は、私に、もう二度と息子ヨセフを会う事などできないと思っていたのに再会できた上に、こうしてさらに二人の孫たちも見せてくださった」と主を賛美し感謝を捧げ礼拝しました。そしてヨセフは父イスラエルの右に長男のマナセを、左に次男のエフライムを立たせましたが、イスラエルは手を交差し、右手をエフライムに、左手をマナセに置き、1516節にあるように、ヨセフを祝福しました。ヨセフはイスラエルが目がかすんでいるから間違ったのだと思って、イスラエルの手をつかんで直そうとすると、19節から20節にあるようにイスラエルは神様に示されたように、それに従って意図的に手を交差して祝福するのだと告げました。ヘブル人への手紙1121節「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました」

そのようにした根拠はなんでしょうか?I歴代誌51節から2節でこう説明しています「イスラエルの長子ルベンの子孫-------彼は長子であったが、父の寝床を汚したことにより、その長子の権利はイスラエルの子ヨセフの子に与えられた。系図の記載は長子の権利に従って行なうものではない。ユダは彼の兄弟たちにまさる者となり、君たる者も彼から出るのであるが、長子の権利はヨセフに帰したからである」

ルベンの失脚によって長子の権利を与えられたヨセフ、そして息子達も神の摂理によって弟のエフライムに右手がおかれて先に祝福され、より大いなる者とされると預言が与えられたのです。

神の選びは、取るに足らない、小さき者が、救いにあずかる事から始まるのです。イエス様もマタイの福音書1930節や2016節でこうおっしゃました「あとの者が先になり、先の者が後になる」

イエス様がこうおっしゃったのは、「どうしたら救われるのですか?」と質問した金持ちの青年への答えと、それを聞いていた弟子たちに「天の御国とはどんな所なのか」と説明した箇所です。私達が覚えておくことは、ただただ神の憐れみゆえに救われたのだという事です。もしかしたら天国で会う人達に、「あなたが救われたんですか!? 神様は本当に深い愛と憐れみの方ですね!」と言われるかもしれないですね~(笑)

 今日の聖書箇所20節をもう一度見てみましょう「あなたがたによってイスラエルは祝福の言葉を述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように』これはイスラエル人が誰かを祝福するときの定型文となることを預言しています。現在でもそれは続いています。イスラエルで子供達を祝福するときは男の子に対して「神があなたをエフライムとマナセのようにしてください」女の子には「神があなたをサラとリベカのように祝福してください」と祈ります。

 

クリスチャンビジネスマンであり、2人の子どもの父親でもあるロルフ・ガールボルク氏は彼の著書「家族の祝福Family Blessing」の中で、このように書いています。「神の祝福とは、成功、繁栄、多産、長寿のための力を、神様から頂くという意味です。神の好意と力を人生に及ぼす行為の一つとして按手(手を置いて祈る行為)があります。イサクは按手によって息子ヤコブを祝福し、ヤコブは息子たちを祝福しました。またイエスもこのようにして弟子たちや子どもたちを祝福したのです」私達もこの神の祝福を受ける事ができるのです。

 

21節、22節では平安の内に迎える最期の時と約束の確認です。

ヤコブは遺されていく家族を神の手に委ねました。そしてかならず故郷カナンへ帰る事を約束し、かつてシメオンとレビ妹のディナのために起こした残虐な復讐行為で奪い取ったシェケムの町をあえて平和を愛し柔和な心を持つヨセフに与えると約束したのです。その事が成就したのはずっと後の出エジプトの時代でありシェケムはヨセフ族の相続地となりました。この地は新約聖書ではサマリヤの地と紹介されています。ヨハネの福音書45節から6節「主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた」イエス様は肩身の狭い思いをしていたサマリヤの女性にわざわざ出会ってくださいました。そしてイエス様を信じて来るものには生ける水を与えると約束してくださいました。私達に出会ってくださったイエス様からいつも生ける水、魂を潤す御言葉を求めて歩みたいと思います。

 ヨセフがシェケムの地を受け継ぐまでには確かに時間がかかりましたが、確実にヨセフの土地となりました。

イエス様はマタイの福音書55節でこうおっしゃいました「柔和な者は幸いです。その人達は地を受け継ぐからです」

アメリカのマサッチューセツ州にあるグレイスチャペルの牧師ブライアン・ウィルカーソン師がメッセージで「待つことの力」についてわかりやすく説明しています。

「幼稚園に自分の子供を迎えに行ったときに、先生が籠に入った可愛いウサギを持ってきたら、子供たちがその籠を囲んで大騒ぎしていました。籠の扉を開いてウサギを外に出してなんとか触ろうとする子供達。ニンジンを振りかざしてみたり、手でつついてみたり。でもウサギはかえって怯えていっこうに出てこようとしない。そこで先生は子供達に、「みんな静かに、少し下がって見守ってみよう。」と提案すると、静かになって数分後にウサギが出てきました。その様子を見ていた時に、私達は他人を自分の思った通りに変えようと、特にまだ信仰をもっていない人に対して、つついたり、過剰に話しかけたりするけれど、少し距離を置いて静かに見守っていたほうが良い場合が多くあるものです。心の準備が整って、神を受け入れ、自分を変える必要があることを受け入れるようになるまで、私達がすることは希望をもって静かに祈り寄り添う事です。なぜなら天の父なる神は私達が神に心を向けるまで、忍耐をもって寄り添い待っていて下さるからです。

ヘブル人への手紙1036節「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」

神の祝福を大きく期待し、希望をもって歩みたいと思います。

 

お祈りします。