20170715マタイ5:1-12「幸いなる人」

 

イエス様は小高い丘に登り、座って教えておられます。これは、ユダヤ教の教師であるラビが、弟子を教えるときの伝統的なスタイルです。イエス様のもとに集まって来たのは、12人の弟子達とさまざまな地域(ガリラヤ、シリヤ、デカポリス、エルサレム、ヨルダン川の向こう岸からやってきた大勢の人々のことです。 ここでのイエス様の教えの本質は、「メシアによる律法の義をわかりやすく教える事です。救いはあくまでも、神の恵みによります。ここでもう一度、神の恵みによる救い、聖霊様の導きによってのみクリスチャンとしての歩みが出来る事を思い出して、主に感謝し礼拝していきましょう。

 

 3節から6節は「神との関係における幸い」7節から12節は「人間関係における幸い」です。まずは「神との関係における幸い」を見ていきましょう。

 3節「心の貧しきものは幸いです」とありますが、原文は「幸いです!祝福されています!」と始まります。イエス様が大勢の人に向かって「幸いです!」と呼びかけた事で、人々は「なんだろう、なにを言いだすんだろう」と興味をもって耳を傾けたはずです。

 ところで、「幸い」という言葉を聞くと、英語でいうhappyな事を思い浮かべますが、    聖書のいう「幸い」とは幸福感を味わう状況や環境、ある状態ではなく、イエス様との関わりがあるならば、すべて幸いな者となれるという、それが神の与える福音です。

英語の聖書の表現、Blessed is the man who 祝福されている者は・・・です、という表現の方がわかりやすいでしょう。

さて、「幸いな人」の第一は「霊において貧しい人」だと教えています。霊において貧しい人とは、自分の心の中には何も良きものがないと自覚し、神の助けを求める人です。イエスさまはルカの福音書18節9節から13節で、自分には神様なんて必要ない、自分は正しいと思い他人を見下げている人達に対して、たとえ話をされました。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人(ユダヤ教の律法を厳格に守っている人達)であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、性的な不道徳をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」

 天の父なる神との関係の中で「幸いなる人」つまり「祝福される人」とは自分の弱さ、罪深さを自覚して神に助けを求める者なのです。

 ここでちょっと考えてみてください。今の自分は幸福ですか?平安ですか? もし、少しでも幸福感や平安が揺らいでいるなら、もう一度、神様の前に心を開き、安らぎを見出せるように祈りましょう。

 2番目の「幸いな人」は「悲しむ者」と4節にありますが、この「悲しみ」は、私たち人間が普通に経験するような意味ではなく、神の視点における「悲しみ」という意味であり、神の「深い嘆き悲しみ」神と同じ心をもって嘆き悲しむ者は、やがて神の「慰め」にあずかるという約束が語られています。イエス様が十字架上で祈られた「父よ。彼らをおゆるし下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」の御心の視点です。

自分の罪(神様から心が離れている状態やそれから起こす良くない事)やこの世の悪を悲しむ心をもつ人に与えられる慰めであり、神が寄り添ってくださる事なのです。

 3番目の「幸いな人」は「柔和な人」です。「柔和」を辞書で調べると「性格、性質が穏やかな有様」とありますが、聖書の中で柔和な人といわれている人は旧約聖書ではイサクやモーセ、新約聖書ではパウロでしょうか・・・。不当な非難や迫害、裏切りに会いながらも、それに対して「神に信頼し、じっと我慢できる人」でしたから柔和な人と言われたのです。そして何よりもキリストこそ柔和さの模範です第1ペテロ2章23節から24節「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」 幸いなるかな、柔和な者は。その人たちは地を受け継ぐから。「柔和さ」は、聖霊による実であり、ひたすら神によって支えられているという信仰的な確信が横たわっているのです。柔和な者は地を受け継ぐ、つまり神の国が与えられる、神の支配の中、におかれる祝福をうけますと約束されているのです。

4つ目の「幸いな人」は「義に飢え渇く人」つまり「常に神と関係を何よりも優先しているということ、自分自身を神に明け渡し、神の恵みの支配の中にいる事を求める人です。そういう人は、肉体的な満たしだけでなく、精神的、霊的満たしを体験するようになります。

 

 アメリカのテキサス州にあるオークヒルズチャーチで奉仕され、多くの本を書かれているマックス・ルケード氏。彼の本の中でCome Thirstyという本がありますが、この本の冒頭には、ヨハネの福音書4章14節「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲むものは決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」という聖書の言葉が書かれています。そしてマックスはこう言っています。「私達は喉が渇くと水を飲みますが、熱中症予防には喉が渇かなくてもこまめに水分補給をする必要があります。魂の渇きを覚えたら、イエス様の所に魂の泉の水を求めにいくべきですし、またそうなる前に聖霊の満たしをもとめ、そこから泉が湧くのです。仮庵の祭りの終わりの大いなる日に、イエス様は立って、大声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とおっしゃいました。ですから、魂に飢え渇きを覚え、イエス様に求めていくべきですと勧めています。

 

「人間関係における幸い」を見ていきましょう。

7節「あわれみ深い者たち」8節「心のきよい者たち」9節「平和をつくる者たち」10節「義のために迫害をされる者たち」は、人に対する特質を表わしています。

7節の「あわれみ深い者」は、他者や弱い者への配慮、共感、寄り添う心を持つ者であり、また神によって赦された者だからこそ、自分をそして他者を赦す事が出来るのです。

8節「心のきよい者」とは、イエス様を信じている者であり、すでに「聖い者」とされています(私たちはセイントです)感動しませんか? また、この世の価値観や偏見や妬みによって人を見ることなく、神の視点から人を見ることが出来る者です。「幸いなるかな、心のきよい者は。その人たちは神を見るからです」この神を見るとはユダヤ的発想の言葉で、意味は「神を人格的に知る」つまり神様との親しい交わりにあるという事、そして天において神を見ることが出来るのです。

第1ヨハネの手紙3章2節「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」

9節「平和をつくる者」とは、「あわれみ深さ」「心のきよさ」があるからこそ、「平和をつくる者」となる事ができて、神の子どもとされるという事です。

イエス様の十字架の血潮によって神との和解がなされ、これに基づいて人と人の和解が成立します。人との平和を追い求め続けることは神のみこころであり、「神の子ども」と呼ばれるようになるのです。

10節「幸いです。義のために迫害されている者は。天の御国はその人たちのものだから」イエス様を信じるだけで救われるということは、ユダヤ人にとっては新しい教えです。当時のクリスチャンにとって信仰のゆえに迫害され、苦しみの中におかれた人達にとって、心強い励ましでしたし、今も、国によっては信仰のゆえに迫害されているクリスチャンがたくさんいます。義のために迫害される者は、3節にある「心の貧しいもの」「神の助けを求める者の幸い」と同じように、「天の御国はその人たちのものだから」それが約束であるし、ゴールであると励まされ、信仰を保つ事が出来るのです。

クリスチャンという言葉は、「あいつら、見てみろ。キリストの教えに染まっている狂ったやつら」という意味です。たとえそう呼ばれても、むしろそう呼ばれて喜びなさい、天では報いが大きいから、だから信仰をしっかりと握りしめていなさい、とイエス様はいってくださっているのです。

信仰の迫害がない日本はクリスチャン人口が1%に満たないのですが、それでもイエス様の愛と恵みによって信仰を持つことが出来たのも奇跡です。そしてどんな状況にあっても神の言葉は永遠に変わることがありません。

 イザヤ書40章8節「草は枯れ、花はしぼむ。だが神の言葉は永遠に立つ」

 

 信仰を持つ事に家族から反対されても、クリスチャンとなり、牧師になられた方を紹介します。松岡広和さんです。現在は埼玉県川口市にある「のぞみ教会」の牧師をされていらっしゃいます。広和さんが牧師になる前はお寺の住職でした。

大学在学中に父親が病に倒れて亡くなり、広和さんのお兄様が若くして住職として跡をとり、広和さんは副住職として寺を支えながら、大学は主席で卒業。その頃は、「お釈迦様は人生の苦しみの解決法を説いた人」だと考えており、煩悩を断ち切れば、人間は苦しみから解放されると信じ、仏教にこそ真理があると確信、卒業後は大学院に進んだ。

そこで韓国から来た僧侶と知り合いになり、韓国の仏教に興味を持ち、韓国へ留学。海外生活は夢でもあり、当時は経済的にも満たされていましたが、次第に「お金があっても、夢がかなっても何かむなしい。何のために自分は生きているのだろう?」と思うようなりました。

クリスマスが近づき、友人に教会に誘われて「ちょっと教会というところをのぞいて見るだけのつもり」という軽い気持ちで日曜日の礼拝に参加したが、「次の日曜日もぜひ礼拝へ」と声を掛けられ、なんとなく次の日曜日も礼拝へ行った。そうしているうちに、聖書と韓国語の勉強のつもりで、聖書勉強会へ出るようになり、聖書を勉強して3カ月。「神様がいるなら信じてみたい」と思い始めた。自分の罪のために十字架にかかってくださったイエスを信じたいが、「そもそも、罪ってなんだ?」と疑問に思うようになりました。

そんな時、勉強会で証しをする順番になり、テーマは「悔い改めについて」でしたから、あまり気は進まない中、証しのために文を書き、皆の前で話を始めると、なぜか後から後からと涙がこぼれ、気が付くと「神様、僕を赦してください」と何度も叫んでいた。突っ伏せて号泣した後、前を見ると、世界が違って見えました。洗礼を受けて、周囲からは、「あれ、お坊さんだったのよね?」と言われながらも、「神様は私たちと共にいてくださる。生きる意味は、イエス様にあるのだ」と毎日が喜びに満ちていました。

帰国後、寺を継いだ兄、母、そして妹に報告しなければいけない、とイエス様を救い主として受け入れた話をすると、皆が「どうしたんだ? だまされているんだろう」と心配と猛反対を受けました。副住職を辞めた広和さんは、しばらく一般の会社員として働き、神学校へ行って牧師になりました。ローマの信徒への手紙10章13節の「主の名を呼び求める者はだれでも救われます。元お坊さんでも、悔い改め、主の御名を呼び求めれば、救われるのです。兄は寺の住職、私は教会の牧師。神様の『選び』ですね」とおっしゃっています。

 

今日のテーマは「幸いなる人、祝福される人」です。信仰をもっている私達はこの祝福の中にいることを覚え、イエス様の後に従って歩みたいと願います。