20170812マタイ527-32「聖さを保つために」

 

 この時期になると、特に平和を考えさせられます。マタイの福音書5章9節「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」そして「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです」と第1テモテへの手紙2章1節から3節で勧められている通り、祈り続けていきたいと思います。

「平和をつくる者の幸い」は、前回の聖書箇所で、神を礼拝するささげものをする前に、「和解しなさい」という事につながっています。つまり、積極的に和解をしようとすることは神様の御国を、愛を証しする事になります。主イエス様を中心におき、良い関係を保つことだと学びました。そうでなかったら、26節のたとえにあるように、「もっている財産もすべてなくなるまで、無期懲役の刑にあたいするほどの苦しみになりますよ」「だから一刻も早く和解しなさい」とイエス様はおっしゃいました。

 

 今日の聖書箇所は「姦淫」・・・「姦淫」という言葉は日常では使わない言葉になりましたが、いわゆる「不倫」と、「離婚」について、イエス様がどのように教え、私達の清さをどう保つべきなのかが教えられていますが、そこには主イエス様を中心とした和解にも通じるところです。

 27節~30節では、出エジプト記の20章14節にある十戒の第7番目「姦淫してはならない」について、神様の目から見たらどういう事なのかをイエス様は教えていらっしゃいます。「姦淫してはならない」ヘブル語では「婚姻を破る」という言葉です。律法学者のパリサイ人はその教えに背いたら、

レビ記20章10節「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわち隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない」に従って、死刑いわゆる石打ちの刑を行いました。当時、女性には人権はありませんでしたから、弱い立場である女性を守るため、またみだらな行為によって起きる様々な問題から人間を守るために神様が与えて戒めである事がわかります。そして、みだらな思いの原因のひとつに「むさぼる心・欲求を満たしたい強い思い」があるわけです。モーセの十戒の第10番目にある「隣人の家をむさぼってはいけない」に関係してくるのです。そこで、イエス様は、情欲を抱いて異性を見ただけで、心の中でその罪を犯したことになるとおっしゃいました。そして29節、30節では、目で見て誘惑されて、行動の道具として使われる手の大元(おおもと)の罪の原因は、その心だと指摘したのです。

不倫もしくは同性愛などによって家族が苦しむという事が多くなっている世の中、その事をテレビのドラマなどで取り上げて、「あ、だれでもやっている事だ」と錯覚させてしまう世の中ですし、また性的暴力で苦しむ方も多くおられます。

NHKの『あさイチ』という番組で、6月に「無関係ですか?性暴力」というテーマで性暴力の実態について実際の被害者の声を紹介し、誤解や偏見とその背景について特集していました。内閣府の調査によると、女性の「15人に1人」が異性からの性交を強要された経験を持っていると紹介した上で、60代の男性は「被害に会った時に激しく抵抗し、大声を出せば避けられるのではないかと思う」また、70代の男性は「死ぬ気で抵抗すれば防げる。性交が成し遂げられたのは、女が途中で諦め、許すからである」との意見を寄せたことに対して、タレントでクリスチャンのジョン・カビラさんは、「あなたの娘さんや奥様に同じ言葉で言えますか。『最後まで抵抗しなかった君が悪い』って言えますかっていうことですよね。例えば、プロレスラー並みの体格の男性にレイプされる可能性もありえるわけで、その時に、あなたは命がけで戦えますか、最後まで。そんなことは無理ですよね。全くの偏見だ」と話されておられました。ジョン・カビラさんの発言は、多くの方に励ましを与えたはずです。

 レイプ被害者の心が癒されるのにはとっても時間がかかります。被害者の方たちがイエス様に出会って、心の傷を早く癒されるようにと願いますし、不倫の問題で家庭が傷ついている方が、もし身近におられましたら、その事が早く解決されて心穏やかになるようにと祈ります。「祈りの力」という映画を以前も紹介しましたが、その中で「イエス・キリストの御名によって祈る、この家はサタンのいる場所ではない、悪しき霊よ、出ていきなさい。イエス様が勝利の力をもって支配していると宣言する!」という場面がありました。イエス様が様々な問題に勝利してくださるのです。

 誘惑やサタンの攻撃から心を守る秘訣をマルチン・ルターはこう言いました。「悪魔が私の心の扉をノックし、『ここは誰が住んでいるのか?』と尋ねるとき、愛する主イエスさまが戸口に出て、こう答えてくださる。『かつてはマルチン・ルターがここに住んでいましたが、彼は出ていき、今は私がここに住んでいる』と。イエス様の手の釘の跡と、脇腹の槍の傷跡が見えると、ただちに悪魔は逃げ去るのだ」私達の心を守って下さるのは主イエス様です。

 

 31節から32節は離婚についてです。31節「『だれでも妻と離別する者は、妻に離縁状を与えよ』と言われています」の土台になっているのは、旧約聖書の申命記24章1節から4節です。

東京の板橋区の商店街に「縁切り榎」という古木があるそうですが、そこに行くといろいろな縁を切るために願掛けに行く方もいるようで・・・特に今とは違い、女性に人権など認められていない時代、離婚を願う女性達をひきつけ、この榎に願掛けし、その木の皮を削って煎じて呑ませると、離婚されると信じられており「板橋へ、三行半の礼参り」という川柳もあるほどですが、男性に好き勝手にされた女性の逃げ道となっているのでしょう。

申命記で神様が与えてくださった離婚に関する教えも、女性の尊厳と権利を守る目的でした。「人が妻を(めと)り、夫となったとき、その妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女性の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。女性がその家を出て行き、他の人の妻となったなって、次の夫が彼女を嫌い、離婚状を書いてその女性の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻として(めと)った後に夫が死んだ場合、その彼女を出した最初の夫は、その女性を再び自分の妻として(めと)ることはできない。彼女は汚されているからである。これは、主の前に忌みきらうべき事である。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない」、という内容を「妻に不貞の行為」を発見した事だけでなく、男性の都合で気に入らなくなった場合も離婚して良い、という勝手な解釈が律法学者の間にありました。例えば、容姿が気に入らない、料理が下手だ、いろいろな文句をつけて男性が女性を好きなようにできる習慣があり、気に入らなければ離婚できる、そしてまた機嫌を取り戻したら、その女性を自分のものにすることが出来る、としたのです。

32節でイエス様は「不倫以外の理由で妻を離縁するなら、その女性が再婚した場合、彼女にも、彼女と結婚する相手にも姦淫の罪を犯させるのです」とおっしゃいました。

それは、女性を家から追い出すときに正式な離婚にせずに追い出すだけ追い出すと女性は路頭に迷い、社会からは追放されてしまします。そんな理不尽な事は起きるべきではないと、おっしゃったのです。

 結婚は神の前における契約です。マルコの福音書106節から9節「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」と、聖書の中で何度も「離婚は良くない」と繰り返しているのは、夫婦は不完全で、不安定な関係で、いつでも不一致と離婚の危機が起きる、どこかで自分は悪くないと自己中心的な考えの対決になるのだから、互いに弱さを認め、主の前に心を砕きながら、喧嘩をしても、和解することの繰り返しで関係性を築いていくことを神様は望んでおられるのです。

しかしながら、私も含めて離婚をしてしまった方もおられるでしょう。離婚したから、罪深いと裁かれたら、ここに立ってメッセージを取り次ぐことは出来ないでしょう。しかし、神様の憐れみ、恵みによって、ここに立たせて頂いております。神様の憐れみによって益と変えられているのです。

夫婦間の問題についてカウンセリングをさせて頂く時には、出来る限り離婚しない方向を、関係の回復を見出しましょうと励ますようにしています。場合によってはそうせざる負えない事もあるでしょう。しかし、例外的に許される離婚については、パウロは第1コリント7章15節から17節で、和解の努力が実らず、相手が離れていく場合の許される離婚にこう言っています。例えばある時ご主人の事で悩まれていた奥様がイエス様の救いを信じ、クリスチャンとなられました。ご主人には放浪癖があって家に中々寄り付かない。信仰を持たれた奥様は祈りつつ、忍耐をもって、ご主人の帰りを待ち、ご主人の更生を願っていたましたが、実現かなわなかったのです。どんなに和解の努力をしても、離れていく相手に対しては「離れて行かせなさい」とこの箇所には書かれています。「平和を得させようとして」という言葉から、現代のドメスティック・バイオレンスの問題、殺されそうになっている女性あるいは男性にそのまま結婚生活を続けなさいとは言い切れません。命が助かるには離婚しかないというケースもあります。この世界に人間は男女しかいないわけですから、どのような関係性をもって生きるべきかは、それぞれの立場で、御言葉からしっかり教えられ、いかにイエス様が愛をもって、私たちを様々な罪から守ろうとして下さっているのかを受け止め、主イエス様の助けを求めながら、その恵みによって、聖くされていくように、祈っていく者でありたいと思います。

パウロはローマ人への手紙5章20節から21節でこう言いました「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです」

 

無条件の愛でひとりひとりを愛して下さっている神様との豊かな交わりこそ、私たちの魂を正しい方向に導いてくださるのです。イエス様が私の主です。と宣言し、天の御国に帰るまで、魂を整えて頂けるように祈り求めましょう。